【近畿地区代表】奈良県立盲学校 高等部普通科3年 川添愛さん(18歳)
もし、私が弱視でなければ、今ここにはいません。そう考えると、とても胸は痛むのに、自分の病気と向き合えない私がここにいます。何で私なんやろ、何度も何度もそう思いました。遠くの物が見える、それってどんな感覚なん。生まれつき弱視の私は、見える、ということの意味がよく分かりませんでした。
小さいころの私は、好奇心旺盛だったため、母は人一倍私のことを思って育ててくれました。小学校に入学した私は学年が上がるにつれて、周りの目やクラスメートの声が気になり始めました。そう感じ始めると体育の授業がつらく、野球やサッカーなどは到底、できるはずがありませんでした。「こいつがおるから、負けんねん」。そう言われるたび、そんなん分かってるわ、そういった気持ちで心がいっぱいになりました。
小学6年生の昼休み、私があることで泣いてしまった時、仲いい子にこう言われました。「愛はさあ、右目からも涙って出るん」。その心ない一言が私にとってはとてもつらく、心に穴が空いたような、そんな気持ちになったのです。その時、私の病気のことをもっとたくさんの人に知ってもらわなければならないと思いました。
中学校からの生活を変えてみたい、誰に何を言われてもいい。私は新たな環境になったことを機に、そう決意しました。しかし、中学校入学式当日、いろんな壁にぶちあたってしまった私は、何度も目をそらしてしまいました。担任の先生が前に立ち「これはこうです。こんな風に書いてください」と私に教えてくれました。けど、そんなん言われたって、私には見えへんし、分からへん。中学に来てまで、もう嫌や。そんな気持ちになりました。そして、新たな環境の中で必ず訪れる、私というクラスメートの紹介。「一番前に座っている川添さんは……」。ああ、また、私の病気のことを言われるんやと、そう思いました。先生の話の内容が目に見えていた私は、この場にいたくない、という正直な気持ちから涙を流してしまいました。結局、私は1年間の間で、友達に心を開くことはありませんでした。
精神力を高めたい、今よりもっと強くなりたいという気持ちから、2年生になるのと同時に柔道部に所属した私は、日々の練習に励みました。そして中学校卒業をきっかけに、自分の意思で、盲学校という道を選びました。
盲学校に通うということは、自分の病気と向き合えた、ということでもあり、また、新たな事に挑戦するといった意味もありました。入学当初の私はやはり、その場の環境になじむことができませんでした。そのせいで、周りの人や家族にまでたくさんの迷惑をかけてしまい、いろんな面で悲しませてしまうことも多々ありました。そのたびに後ろを振り返っては自分自身というものについて考え、自分の行動や意思、病気に対する消極的な考えをもっと前向きなものにしたい、そう思ったのです。
障害、人には分かってもらえないことがたくさんあります。つらいことや悲しいことがたくさんあります。けれど、私はそれを自分自身の力に変えたいのです。障害なんて何も恥じることではない。だから私は、今できることを精いっぱいやってみたい。将来につながる何かを、一つ一つ見つけたい。家族や仲間、そして今ここにいる、大切な人たちと一緒に。
ご清聴、ありがとうございました。
【中部地区代表】岐阜県立岐阜盲学校 高等部専攻科3年 橋詰伸明さん(20歳)
「頑張る人は偉い人、頑張り抜いた人は幸福の人」。これは、私が小さいころから父がよく口にしていた言葉です。
私の父は養鶏場に勤務し、朝早くから夜遅くまで多忙な日々を送っていました。生き物相手の大変さは、頭では理解していたつもりでしたが、家族との会話も全く無く、仕事のことしか頭にないような父に、次第に反発を感じ、距離をとるようになっていきました。そんな父でしたが、私が目を悪くして入院したときには何度も見舞いにきてくれ、盲学校に転校しなければならなくなったときにも、ずいぶん助けてくれました。不安な思いで入学した盲学校でしたが、目が見えなくても少し工夫をすれば何でもできることがわかり、次第に明るさを取り戻していった私に、父も安心したようでした。
専攻科に入って理療の勉強を始めたころ、父が肩をもんでほしいと珍しく声をかけてきました。習いたてのあん摩を受けながら「おまえは将来どうするんだ。盲学校の先生になって母校に戻ってきたらどうだ」と言うのです。私も毎日、視覚障害の先生方が生き生きと仕事をしておられる姿を見て、教師になりたいと考え始めていた矢先だったので、忙しい日々のなか、私のことを心配してくれていることに心打たれ、熱い思いにかられました。
そんな矢先のことでした。父が脳出血で倒れたのです。一命は取り留めたものの、記憶障害という重い後遺症を残してしまいました。昔の記憶はあるものの、最近の出来事や、さっき話していたことなどを記憶することが難しいのです。
それだけでなく、自分で作った話を現実のことと勘違いしてしまうこともありました。以前、私も参加した会合で、父が「玉(たま)合格」という商品を紹介したときのことです。その卵のパックのラベルに、父が大好きだった「頑張る人は偉い人、頑張り抜いた人は幸福の人」という言葉を、自分の発案で印刷したと誇らしげに言うのです。私は、ただただ感心するばかりでしたが、家に帰り母に話すと作り話だったということが分かりました。
最近、私は家にいることが多くなった父と一緒に、リハビリを兼ねてよく散歩するようになりました。歩きながら、父はいろいろな話をしてくれます。子供のころの話や母との出会い。そして、私が生まれたときの喜びや、徐々に視力が落ちていく息子をそばでみていることしかできなかった歯がゆさなど、とりとめのない話をする父の声は、今まで聞いたことのない穏やかで優しいものでした。
中間管理職という厳しい立場で、体も心もボロボロになりながら、「頑張る人は偉い人」と自分に言い聞かせながら家族のために懸命に働いて病魔に倒れた父に、なぜもっと早く素直に向かい合うことができなかったのかと、すまない気持ちでいっぱいになりました。自分が働いて家計を助けなければならない状況になったことで、一度は夢見た教師の道をあきらめようかとも思いました。しかし、仕事に対する父の強い思いや、いちずな姿を見ていて、自分も一生納得できる仕事がしたい。少し家族には迷惑をかけるが、その分、教員になって恩返ししようと心に決めました。
父がふと昨日の話をしたり、さっき話していたことを覚えていたりすると、確実に回復しているとうれしくなります。しかし、社会復帰には、まだまだ長い時間がかかりそうです。
「頑張る人は偉い人、頑張り抜いた人は幸福の人」。お父さん、僕はこれから頑張り抜いて、幸福の人になります。だから、お父さんも社会復帰めざして、一緒に頑張ろう。
ご清聴、ありがとうございました。
【中部地区代表】 愛知県立名古屋盲学校 中学部1年 新谷愛さん(13歳)
始まりは、私が10歳の時だった。突然、見えにくくなり、障害者であるという現実を突き付けられた。当時の私は、まだ幼く、そんな現実を受け止められるほど、心に余裕はなかった。これからやりたい事も、何をすれば良いのかも、分からなくなっていた。そんな自分が嫌いで、その気持ちは、日に日に大きくなっていた。そんな私を見た家族は、私に気を使っていたのか、あまりその話には触れようとせず、優しく見守ってくれていた。家族の何気ない優しさが、心の支えになっていた。
学校は普通校だったため、ろくに授業もできず、成績はどんどん下がっていった。医者から運動も止められ、外で楽しそうに遊んでいる友達を見ると、うらやましさに加え、腹立たしさを感じていた。すべてを否定的にとらえて日々を過ごしていた私に、「あまり見えていなくても、少し見えているだけ、幸せじゃん」。この言葉を掛けてくれたのは、私の幼なじみの友達で、私が一番信頼できる人だった。この人が言ってくれたからというのもあるが、今まで同情ばかりされていた私に、差別もない、正直で、ストレートな言葉を言ってくれたのは初めてで、それがうれしくて、私は前向きに生きていこうと決め、今までの自分がうそのように、一瞬にして変わる事ができた。それまで後ろ向きだった私に、一筋の光が差したのを感じた。性格も前よりずっと明るくなり、毎日が楽しい! と、胸を張って言えるまでになった。
その結果、たくさんの友達に恵まれ、その友達とは今でも連絡を取り合っている。みんな、私の事を支えてくれて、どんな時も守ってくれた。教室移動や下校の時は、私の腕を持って左右を囲んで歩いてくれた。そして、いつも一生懸命になって、私のサポートをしてくれた。その気持ちが、私の一番のエネルギーとなっていた。
そんな仲間たちとの別れの日。大粒の涙を流し、一人一人にお礼を言ったが、あの大切な言葉を言ってくれた友人だけには何も言えず、その事は今でも後悔している。きっと、この悔しさは一生忘れる事はないだろう。この親友には、心から感謝している。なのに、どうしてあの時、素直になれなかったのだろう? いま思えば、少し照れくさかったのと、泣いている自分の弱さを見せたくなかったからなのかもしれない。
その後の私は、自立した生活を心掛けるようになった。自分の事は自分で判断し、一人でできる事は責任を持ってやりとげるように努力した。そうする事で、何でも恐れず、チャレンジする勇気もできた。私が頑張ることが親孝行につながると思うので、今まで心配かけてきた家族を安心させたい。
「あまり頑張り過ぎないでね」
(えっ!? どういう意味!? 私、また同情されているの!?)
何だか、また無性に腹が立ち、余計に頑張らなきゃ!! と、むきになる。
すると、その言葉は、どんどん私の周りに増えてきた。
そんなころ、校長先生に呼び出された。
「最近の調子はどうですか?」
そう言われた瞬間、急に涙があふれてきた。気持ちをコントロールできない。涙を止められない。そんな状態の私に、校長先生はこう言った。
「何でも一人で抱え込んでちゃだめだよ。張りつめていた糸は、いつかぷつっと切れてしまうんだから」
校長先生は、私の将来のためにと、その時初めて盲学校の事について教えてくれた。校長先生は、私がまた余計に重たい荷物を背負うのではないかと、今までその名は伏せてきたらしいが、これが一番良い方法だと紹介してくれた。正直、仲の良い友達と、今までと変わりなく一緒にいて、地元の中学校で勉強していきたかった。
しばらくして、校長先生に、
「盲学校に、見学に行ってみない?」
と誘われた。
あまり乗り気ではなかったが、その場しのぎで、
「じゃあ……、行きます……」
と伝えた。
(もし盲学校に通う事になったら、今の友達とはどうなるの!? 忘れられてしまうの!? 何より、障害者であるという事を認めなければならないのが一番嫌!!)
またネガティブな事ばかり考えてしまう。
だが、盲学校の小学部生に出会った瞬間、考え方が180度変わった。きっと私よりも、たくさんつらい思いをして生きているはずなのに、どうしてこんなに幸せそうに笑っていられるのだろうか。そんな衝撃を受けた私は、盲学校で専門的な指導を受けたい!! と思うようになった。この学校で生活していれば、新しい自分に出会えるんじゃないかと思った。
将来は、東京の高校に行くのが夢だ。その夢に向かって、大切な人からの言葉を胸に、これからの人生を歩んでいきたい。これからも、私の闘いは続いていくだろう。だが、どんな事があっても、自分にも、病気にも、障害にも負けない!! 絶対負けない!!
ご清聴、ありがとうございました。