【中国・四国地区代表】 愛媛県立松山盲学校 高等部保健理療科2年 冨永 広幸さん(49歳)
昨年4月、私は松山盲学校に入学しました。それまではトラックの運転手。関東、北陸、九州、そして、中国、四国を鮮魚を積んで走り回っていました。トラックの中で寝起きをしながら2、3日家を空けることも少なくなく、一家の大黒柱として家族のため懸命に仕事をする。そんな生活に幸せを感じていました。
一昨年10月、私は会社のトラックをぶつけ、社長から目の検査を受けるよう命じられました。恐る恐る妻に話すと、「しょうがないじゃん。検査、行くよ」との一言。結果、網膜色素変性症とのことで、私は仕事を辞めることになりました。妻に連れられるまま盲学校を訪ね、落ち込む間もなく入学することになったのです。通学もできますが、私は家族と離れて寄宿舎に入ることにしました。これ以上、妻に迷惑を掛けたくないと思ったからです。
「自分のことは自分でやれ。 一人になった時に困らんやろ」との妻の激励を受け、私の寄宿舎生活が始まりました。決まった時間にみんなで一緒に食事をしたり、掃除をしたり。これまでに経験のない集団生活です。私が何よりも苦手なのは、人付き合い。人見知りの激しい私が声を掛けたり、人前で話したりするのは、それはもう大変なことなのです。
運転手をしていた頃、仕事以外はほとんど話しませんでした。「黙ってないで、何か言え」と妻からよく言われたものです。やがて「ハズ虫」というあだ名を妻からちょうだいしました。「ハズ虫」とは、大きな葉っぱに付く、触ると頭を振る毛虫です。「馬鹿にしやがって」と頭にきましたが、なるほどと、納得もしました。なんせ、家のことはすべて妻任せ、何を聞かれても首を振るだけだったからです。それからというもの、妻は事あるごとに私を「ハズ虫」と呼びます。給料を持って帰ったときだけは優しくしてくれます。それも一瞬、すぐに「ハズ虫」と呼び捨てます。そんな妻ですが、このズバズバ言う遠慮のない言葉に、私はどれだけ救われたことでしょう。そして、寄宿舎で過ごすうちに、この言葉の裏側にある優しさを、ありがたく感じるようになりました。
日曜日の夜から金曜日まで、寄宿舎で過ごします。これがなんと長くて寂しいことか。 やっと帰れる金曜日、いそいそ帰り支度をしていると、決まって「もうすぐ着くよ」と電話が入ります。待ちに待った週末の始まりです。私の楽しみの一つは酒を飲むこと。家に帰って飲む一杯は最高にうまい。 そして、孫に会うこと。上は男の子5年生、下は女の子3年生。女の子は日曜日の夜、必ず手紙を書いてくれます。「頑張れ、ジージ」。この手紙を寄宿舎で何度も読み返し、返事を書いて、週末孫に手渡すのが習慣になりました。そんな私に妻は「私はどうでもええんかい、あんたは孫さえおればええんやろ」と言い放つのです。
仕事をしていた頃、妻は私を大事にしてくれました。ところが、私が盲学校に通うようになるとどうでしょう。 妻が「鬼」のように見えてきます。近ごろでは「また帰るん」とまで言われます。どうやら妻は私がいない、孫との生活が楽でいいようです。特に私の食事の世話が面倒らしく、文句も言わずに黙って酒を飲んでいても、イライラして私に当たります。この変わりようは何だろうと家に帰るたびに思うのです。
でも、妻の苦労は私が一番に分かっているつもりです。私が仕事を辞めてからというもの、妻が大黒柱になって頑張ってくれています。仕事、家事、孫の世話、その上、私の送り迎え、ゆっくり座っていることなどありません。「大事にする、苦労はさせん」と言って結婚したのに、今では苦労の掛けっぱなしです。「3年待てよ」と言い聞かせながら一日一日を指折り数え、やっと1年余りが過ぎました。
自分のため、家族のため、一生懸命に勉強して、少しでも早く一人前のマッサージ師になりたい。そして、妻や家族を守りたい。妻や家族、ちょっと口は悪くてもみんな大事な大事な宝物です。面と向かってはとても言えませんが、「ありがとう、みんながいるから頑張れる」といつも感謝しています。この思いを胸に、この家族に支えられながら、私はもう一度、大黒柱になって、妻や家族を守ってみせます。
ありがとうございました。
【北海道地区代表】 北海道高等盲学校 高等部普通科1年 越智 美月さん(16歳)
ひまわりの花のように生きていきたい。しんが強いひまわり。太陽に向かって大きく育つ立派なひまわり。
私は生まれつきの全盲で、光を感じることができません。でも、今まで不便な思いをしたことがありませんでした。幼稚園時代、先生や友だちがいつも私を助けてくれ、みんな仲良くしてくれました。今まで関わった人は、みんな私のことを理解してくれる人ばかりでした。
私は14年間、晴眼の人たちとの違いについて気付くことはありませんでした。そのために視覚障害について深く考えてきませんでした。しかし、ある二つの経験を通して自分の考えが変わり、いろいろなことに気付くことができました。
一つ目は、進路についての悩みから学んだことです。盲学校での小・中学部時代、私には同級生がいませんでした。そのため、大人数で過ごす学校生活に憧れを持つようになり、普通高校進学を考えるようになりました。
中学部3年の担任が弱視の先生でした。見えづらさからくる大変さや体験を交え、親身に相談に乗ってくださいました。そのことがきっかけで、自分の考えの甘さに気付き、自分の障害について考えるようになりました。視覚障害について考えていく中で、社会に出るためにはもっと自分を鍛えなければ、と強く思うようになりました。そこで私は自分の力を確実に伸ばすことができる盲学校高等部を選びました。
この経験を通して、私が進学や職業自立するためには、強い意志と日々の努力が大切だということを学びました。自分の苦手なところを見極め、「何があっても負けない」という強い意志。そして、根性があれば道が開ける。太陽に向かって自分の意志があるかのように、すくすくと伸びるひまわりが私の目標です。
そして高校生になり、また自分の考えを大きく変えた出来事がありました。高校生になって1カ月がたったころ、ある年配の女性が、私の家を訪ねてきました。私は登校しており、直接その方に会えませんでした。その女性は、中学部時代、毎日登校するときに出会う人でした。急に見かけなくなった私を心配してわざわざ家まで訪ねてくださったそうです。
「毎朝、お母さんと楽しそうにおしゃべりしながら歩いているお嬢さんを、散歩の途中で見かけると、お嬢さんにそっくりな孫を毎日見ているようで、それが私の楽しみだったんですよ。でも急に会わなくなったから高校生になったのかなあとも思ったんだけど、いじめを受けていないだろうか、孤独を感じていないだろうかといろいろ思っていたら、心配で心配で眠れなくなってしまって」と言われたそうです。そして母が新しい学校でもみんなと仲良くやっていることを伝えると、「それは良かった。安心した。頑張ってねと伝えてください」と言って帰って行かれたそうです。
帰宅後、母からそのエピソードを聞き、とても温かい気持ちになりました。それと同時に「そんなに心配してくれたり、応援してくれたりする人がいるのなら、私ももっと頑張らなくては」と決意を新たにしました。
なぜ障害を持って生まれてきたかなんて、誰に聞いても、いくら考えてもわかりません。でも、その方に出会ったことで答えの一つが見つかったように思いました。私が自立して立派な社会人になることは、周りの人に勇気や希望を与える。人の気持ちを動かすことができる私。自分をそう意識し始めました。
ひまわりは太陽からエネルギーをもらって育ちます。そして大きな花を咲かせたひまわりを触った私は、何かエネルギーのようなものを感じます。いろいろなことに挑戦して頑張ることで、私は人を勇気づけられます。そしてそういう人たちがたくさんいることが私のエネルギーになり、さらに「頑張ろう」という気持ちにさせてくれます。ひまわりと似ている気がしませんか。
私はいろいろな人たちに支えられて生きています。今は往復2時間かけて、母に学校の送り迎えをしてもらっています。いつもとても感謝しています。外を一人で歩いていくとたくさんの人に声をかけられます。このように人にいろいろな形で支援をもらえる私たち視覚障害者はすてきだと思います。私たちは人の顔が見えない分、気持ちをこめて言葉を伝えます。
ひまわりが太陽に向かって大輪の花を咲かせるように、私ももっとたくましく生きていきたい。そして、見えなくても自分の努力次第で健常者と同じように何でもできるということを証明していきたい。私たちには多くの可能性があり、人と深く関われるという素晴らしさがあるのです。だから、胸を張って生きていきませんか。見えない私にしか味わえないことや私にしかできないことがたくさんある。それが私の「見えないことで見えたこと」。
ご清聴、ありがとうございました。
【東北地区代表】 岩手県立盛岡視覚支援学校 中学部3年 櫻田 智宏さん(14歳)
僕は小さいころ頃から「駅員」になりたいと思っていました。駅のホームで、手を挙げて発車の合図をしたり、改札で切符をチェックしたりする駅員さんたちの姿がとてもかっこよくて、自分が駅員になった姿を想像するだけでとても幸せな気持ちになったものです。
視覚支援学校の中学部に入学し、進路希望調査があった時も、僕は何の迷いもなく「駅員」と書いていました。2年生になって本格的に進路学習が始まったある日、先生が言いました。「東京の山手線などは10両以上もあって、ドアを閉める時はずうっと後ろのほうまで目で見て、安全を確かめてから合図を出すんだよ」
そういう話を聞いても、僕は先生の意図がよく分かりませんでした。分からないどころか、ますます駅員になりたいという思いが強くなり、絶対に駅員になれると思い続けていました。そんな僕に先生はまた言いました。
そういう話を聞いても、僕は先生の意図がよく分かりませんでした。分からないどころか、ますます駅員になりたいという思いが強くなり、絶対に駅員になれると思い続けていました。そんな僕に先生はまた言いました。
「切符の販売も、行き先や料金をちゃんと確認して、間違いのないように、しかも手早くやることが求められると思うよ。細かい字やパソコンの画面を正確に、しかも早く読み取らないとお客さんを待たせることになるしね」
「先生は何を言っているんだ。細かい字?パソコンの画面?読めるよ……。でも早くだって」
いや、漠然と分かってはいたのです。でも、それまで視覚の障害についてあまり真剣に考えたことはありませんでした。
「視覚に障害があると駅員にはなれないのだろうか」。そこで、改めて駅員の仕事を調べてみることにしました。インターネットで検索してみると、切符販売や案内、放送、改札のほかにも、車両のメンテナンス、ホームの安全を見守るホーム立哨(りっしょう)、運転士、車掌などいろいろありました。どれも視力を必要とする仕事のように思いました。
「僕は本当に駅員になれるのだろうか」
「ずっと思い続けてきた夢をあきらめなければならないのだろうか」
今までに感じたことのない不安がこみ上げてきました。僕は生まれて初めて、自分の視覚の障害と向き合わなければならなくなったのです。
「先生方は中学生の頃、何になりたかったんだろう」。ふと、そんな疑問がわいてきました。そこで先生方に、中学生の頃、何になりたかったか、今その職業に就いているか、仕事をする上で大切なことは何か、進路実現に向けてのアドバイスなどについてアンケートを取ることにしました。
その結果、中学生の頃、なりたかった職業に就いている先生は、回収した68人中、14人だけでした。中学生の頃、なりたかった職業として、パイロット、外交官、電車の運転手、医者、看護師などさまざまな仕事が書かれていました。先生方も中学生の頃は、いろいろな夢やあこがれがあったことに親しみを感じました。また、なりたかった仕事に就かなかった理由としては、「ほかになりたい仕事が見つかった」「自分には向いていないことがわかった」「視力の障害」などが挙げられていました。でも、ほとんどの先生方が今の仕事に満足していることも分かり、とても安心しました。
正直なところ、僕はまだ駅員をあきらめることはできません。先生方へのアンケートの中には、進路実現のためには、「あきらめない」「なりたい仕事について情報を集める」「努力を欠かさない」ということも書かれていました。また、仕事をする上で大切なことは、「生きがいを感じること」という記述もありました。
校外学習で盛岡駅に行った時に、障害者雇用についても質問してみました。すると、視覚障害者の雇用はまだないけれど、事務職などさまざまな職種があるので可能性はあるというお話でした。駅の仕事の中で、自分ができることがあるのかどうか、納得できるまで調べてみたいと思います。
僕は今、やっと「あこがれ」から「現実」に向けての一歩を踏み出しました。夢は見るものではなく、かなえるものだと言われますが、誰もがかなうわけではありません。でも、何も努力せずにあきらめるのと、努力して、その結果として進路を変更するのとは違うと思います。夢の実現に向けて、努力することに価値があるのではないでしょうか。その中で生きがいを感じることのできる新たな進路が見つかったとしたら、それは「あきらめ」ではなく、「前進」なのだと僕は思います。