弁論を読む

<優勝>Ame(あめ)

静岡県立浜松視覚特別支援学校 高等部専攻科理療科2年 望月 達哉 (28)

雨が降っているときどうしますか? 傘をさすでしょうか? 走って家に帰るでしょうか? あっ、今日は帰らないでくださいね。では心の中に雨が降っているときどうしますか?

私は経済的な理由で大学を中退してから5年間、一般企業で働いていました。視力の低下から特別支援学校へ通うことを決意した一昨年の夏、仕事を辞め、実家に帰ろうと考えていました。実家とは疎遠になっていましたが、頻繁にお金の無心があったことや、糖尿病を患っていた母の入院費を負担していたことから、文句を言われることはないだろうと考えていましたし、実際反対されませんでした。ですが、私の計画はすぐに破綻します。

その秋のことでした。食事制限を守ることのできなかった母は、食べ物を喉につまらせ意識を失いました。

病院で母のやせ衰えた青白い顔を見たとき、複雑な気持ちになりました。大学生の時、校納金のことで喧嘩したまま疎遠になっており、素直に悲しいという気持ちになれなかったからです。ドクターから、亡くなる可能性が高いことや、一命をとりとめたとしても寝たきりになるだろうという説明をも冷静に聞くことができるほどでした。ですが、深夜の病室に親子3人でいると、私は自然と母に声をかけていました。何時間も何時間も返事のない母に向かって話し続け、明け方になるまで声をかけ続けている自分に気が付いたとき、憎んでいるとさえ思っていた母が自分にとって大切な存在だということを思い知らされました。朝になり、私の呼びかけに対して母の手が動いたとき、うれしさで涙があふれました。翌日になり意識を取り戻した母が私に電話をかけたとき、仕事中で電話を取ることができませんでしたが、後で会えばいいと簡単に考えていました。ですが意識を取り戻したことで残った体力を使い切り、母は亡くなりました。生前にもっと話をしていれば、せめて最後に電話を取っていれば、という思いに襲われ、しばらく呆然としていました。

そして、悪いことは重なり、葬儀から3カ月後に父が自転車の操作ミスで側溝に転落し、他界しました。酒にタバコ、ギャンブルと、自分の好きなことばかりしている人だとさげすんでいました。それでも事故現場を見に行ったとき、冬の冷たい水の中で寒い思いをしただろう、頭を打ち付けてどんなに痛い思いをしたのだろうかと思いを巡らせると、やはり悲しみが押し寄せてきました。両親の亡きがらを目の当たりにし触れた時の、あの冷たい感覚は生涯忘れることがないと思います。

その後家の整理をしていると、両親に多額の借金があったことや、父が生前実家を売却していたことがわかりました。住む家もなくサポートを受けることができないのでは学校へ通うことを諦めなければいけないのかと思い、前途を断たれたような気がしました。会社からは以前のように働いてもいいと温かい提案をいただいていましたが、視力を失えばその会社で働くことはできなくなります。なので、安心することはできません。このとき私の心には、雨が、強く降り注いでいました。

そんな気持ちを抱えながら働いていた去年の1月のことです。休日が、あるシンガーソングライターさんのライブと重なりました。その方の歌を初めて聴いたとき、底知れない苦しみを抱え立ち向かっているような力強い雰囲気に一瞬で引きこまれていました。家にいても鬱々とするばかりなので、気分転換の意味も込めて北参道へ足を運びました。そこで、雨をモチーフにした曲に出会いました。歌詞の中に、「心に雨を降らせているのは誰かわかっている」というものがありました。楽曲全体を通して聴けば、雨を降らせている、すなわちネガティブな気持ちになっているのは自分自身が原因だ、と伝えていることがよくわかります。そしてこの日の最後の1曲は、人生を航海に例えたもので、「今も広い海の上、一人」「死ぬなよ、生きろよ、生き抜けよ」という歌詞が印象的な曲でした。この二つの曲を聴いて、どんなに辛いときでも、たった独りぼっちだとしても諦めてはいけない、気持ちを沈めているのは自分自身なんだよ、と諭されているような気がしました。そして、意志を強く持ち、最後まで生き抜いていける力を身につけよう、と決意しました。

雨降って地固まる、です。どんな困難な状況も、見方を変えれば成長のチャンスだと思います。私は今、理療科で学んでいます。借金は相続放棄をして全てなくなりました。学校が休みの日には以前と同じ会社でアルバイトをさせてもらっています。生きるために、生き抜くために働き、勉強して、立派に成長していこうと思います。そしていつか、相続放棄で土地ごと失ってしまった先祖代々の墓を買い戻し、墓の前でもう一度父母とゆっくり話をしたいと思います。

東京であの歌を聴いて、心に雨を降らせることができるのは、74億人が暮らす地球上でたった一人、他の誰でもない自分自身でしかないと確信しました。ならば、雨雲は自分で払いのけるしかありません。一人だとしても、誰かの助けを借りたとしても、時々休んだとしても、諦めてはいけません。たった1度の人生です。明るく楽しく終えることができるよう自分自身に責任を持っていきたいと思います。

ご清聴ありがとうございました。

<準優勝>心のハーモニー

兵庫県立視覚特別支援学校 高等部普通科3年 大橋 実華 (17)

皆さんは、「障害を受け入れて生きる」とは、どういうことだと考えていますか。今の私にとって、それは「ありのままの自分を隠さず生きる」ということです。

私は小学校2年生の時に、視神経髄膜炎という病気で突然、強度弱視になりました。しかし、子どもだった私は、深くは受け止めていませんでした

地元の中学に進学し、音楽が好きな私は、吹奏楽部に入部しました。楽器はクラリネットで、演奏することは楽しく、楽譜が見えないため、暗譜をするなどの苦労はありましたが、毎日が充実していました。最高学年になると、パートリーダーを任され、責任感と、後輩の手本になりたいと、強い意気込みでいっぱいでした。

ある日、後輩が、「分からないところがあるんですけど」と、楽譜を指さします。しかし、音符が見えない私は、とっさに、「ごめん、そこ難しいやろ。私も分からへんねん。」と答えてしまいました。その瞬間、後輩の前で、楽譜に目を擦り寄せて見るのが、悔しく、恥ずかしく、「私は目が悪いんだ」という現実がグサリと胸に突き刺さったのです。合奏練習の時には、その場で楽譜を渡されることも多く、私が全く吹けなくて、パート全体が叱られることもありました。自信を失った私は、自分のせいでまわりに迷惑をかけていることがつらく、ただ、自分のふがいなさを責め続けていました。

自分が病気であることを隠したい。私なんて大嫌いだ。家に帰っても、「なんで私だけ目が見えへんの」、「目が見えとったら、ちゃんと教えてあげれるのに」という思いばかりが頭の中を渦巻きます。この思いを誰かに聞いてほしい。けれど、口に出すことはできませんでした。

そんなある日、ふと、一本のドキュメント番組にひきつけられました。一人の重病になった少女が、「私が病気になってつらい思いをしているのは、お姉ちゃんの代わりなんだ」と語っていました。ハッとしました。私には「なんで病気になったのはお姉ちゃんじゃなくて私なんやろう」と思った時があったからです。彼女はなんて強いんだろう。その瞬間、何かがふっきれたように「病気になったのは仕方がないんだ、私も強くならなければ!!」と思いました。

このままではいけない。ある日、勇気を持って同じパートの友達に、「数字見えへんから、針合わしてくれへん」とメトロノームを渡しました。するとその子は「うん、ええよ」とごく自然に答えてくれました。「こんなにも簡単なことだったんだ」。本当にうれしかった。友達の自然な態度に、体中の力が抜けるような安心感を覚えました。

その時から、テンポを変える時にも何気なく声をかけてくれるようになりました。そんな仲間たちと作り上げた音楽は、コンクールで金賞を取ることができました。一生忘れられない大切な思い出です。

高等学校は、視覚特別支援学校を選びました。毎日気を張って、必死で生きていくことに疲れていたのかもしれません。同じ障害を持っている人たちと生活したいと考えて入学しました。配慮ある生活の中で安心して授業を受けることができ、のびのびと意見を言います。飾らない自分を出して過ごすことができました。しかし、この世界から巣立つ時は必ずやってきます。

今の私に「ありのままの自分を隠さず生きる」覚悟はできているでしょうか。私は自分の障害を完全に受け入れることができていません。白杖を持つことに戸惑いがあったり、さまざまな場面で「恥ずかしい」と感じてしまうことがあるのです。しかし、一歩ずつ、少しずつそんな自分を変えていきたい!と思いながら生きています。

今の私があるのは、吹奏楽部での経験があったからこそです。この先もずっと音楽と関わっていきたい、演奏し続けて、音楽の素晴らしさを伝えていきたい。

そして、たくさんの人々と出会い、人を大切にし、心を通い合わせ、美しい心のハーモニーを奏でて生きていきたいです。

ご清聴ありがとうございました。

<3位> 水の中で生きる

香川県立盲学校 高等部専攻科理療科2年 三野田 大翔 (28)

3年前のある朝、目が覚めると水の中にいるようでした。

妊娠中の妻と1歳の息子を持つ、あの頃の私にとって、すごく居心地の悪い水の中だったのを今でも覚えています。

視覚に障害を持つ皆さんは、自分の見え方を友人や初めて会う人にどのように説明していますか。私は水の中で目を開けたときのように、全てがぼやけている状態と伝えています。

高校時代には部活動のホッケーに打ち込み、四国大会の優秀選手賞を獲得し、国体選手にも選ばれました。仕事ではファッションショーや結婚式のモデルをするなど、とても幸せな生活を送っていたと思います。結婚をし、子供も生まれ、さあこれから頑張ろう、そう思った矢先の出来事でした。

当時は家族を支えなければならないという気持ちが強く、弱音を吐く間もなく、仕事を続けざるをえない状況でした。しかし、徐々に水は濁ってきます。自分を偽り、仲間に隠して仕事を続けていました。結婚式のモデルでは、見えにくさから誓いの言葉が読めなかったり、階段を踏み外してけがをしそうになったりもしましたが、笑って謝るしかできませんでした。家族のために働かなければと自分に言い聞かせ頑張りました。

そんなある日、突然妻が私に言いました。「盲学校に行ってみたら」

私は戸惑いました。「だって働かないかんやん」

「今のあんた、かっこわるくて見ておれんわ」

「そんな事、言うたって、生活はどうするんや」

「私が働いたら一緒やろ」

一刀両断されました。頑張って働いていた私にとって、信じられない言葉でした。怒りさえ覚えました。

しかし、妻も妻なりに悩み、考えての言葉だったのです。実は、私の母も5年前、突然視力が低下し、盲学校に入学しました。今では卒業して、いきいきと働いています。そんな母を妻は見ていました。何か道が開けるのでは、と思って出た妻の言葉だったのです。半強制的に盲学校に入学させられた私ですが、そこで出会った理療の世界に魅了されていくのです。

入学当初は、親指だけでの腕立て伏せばかりで、あん摩の授業は痛くてつらいだけでした。経絡や経穴といった存在するのかしないのか、はっきりしないものを勉強させられ、本当にこれでいいのだろうか、不安でした。

転機となったのは、昨年11月に参加したマッサージボランティアでのことです。患者さんからいただいたある言葉「ありがとう、楽になったわ」。

その言葉を聞いて自然と涙がこぼれそうになりました。

水の中で生活を始めてから、できなくなることばかりを数え、自然と人との関わりも減っていました。そんな時、「ありがとう」という言葉に、視覚障害者にとって理療がどれだけ大切なものか気づかされました。視覚障害があっても人の役に立つことができると実感し、力が湧いてくるようでした。それからは受身ではなく、自ら練習に、勉強に向かうようになりました。

私の好きな言葉は「一所懸命」です。一生懸命ではなく、「一所懸命」、つまり一つのところ、一つの事柄で懸命に頑張るということです。今の私は理療に対して一所懸命に向き合っています。人は一所懸命な時、一番輝けると私は思っています。また、その輝きが濁った水の中に明るい光を与えてくれるのです。皆さんが一所懸命になれることは何でしょう。輝けることは何でしょう。まだ「一所懸命」になれるものに出会っていない人がいるなら、ぜひ見つけてほしいと思います。出会っているなら、より一層輝かせていきましょう。

今でも見え方は変わらず水の中にいるようです。しかし、その水の中も少しずつ明るい光が射し、居心地のいい空間になってきました。私を応援してくれている妻、信号の色を教えてくれるようになった長男、パパを『ばいきんまん』と呼ぶ長女、母として先輩として温かく見守ってくれているおかん、切磋琢磨し笑いあえるクラスメートたち、家族や周りの人たちに感謝しながら、もう一度、一所懸命に輝きを取り戻し、かっこよくなってやろうと、今は思っています。

ご清聴ありがとうございました。

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