「視覚障がい者やねんから多少融通きかせてくれや!」
この言葉を耳にした時、僕は怒りとも悲しみとも言えない複雑な感情を覚え、それと同時にどうしようもなく心を痛めました。
どうしてこのような言葉が出てしまったのか。なぜそのような言葉を口に言わせるまでに至ったのか。ことの顛末(てんまつ)はこうでした。
それは数年前のフロアバレーボールの、社会人の大会でのこと。組合せ抽選を済ませ、各々のチームが試合に備え準備をし、公式練習もそこそこに、間もなく試合が始まろうとしている。そんなときでした。
40代ぐらいでしょうか。おそらく全盲だと思われる男性がひとり、ベンチに座って靴を履き替え、履き心地が悪かったのか何度も靴紐を結び直し、手こずっていました。
しかし試合予定時刻も差し迫り、主審の笛もかかり各選手たちが整列し始めようとしていました。そのとき「おいおい、ちょっと待ってくれや、まだ準備しとるやないか」。一瞬、その場がシンと、静まりかえるのがわかりました。これから試合が始まるというのに何水差してくれてんねん、と僕は思いながらもそれを何となく見ていると、主審の注意が何度か入り何やら言い争いをしているようでした。するといきなり……。
「視覚障がい者のためのスポーツとちゃうんかい! 視覚障がい者やねんからそうゆうとこ多少融通きかせてくれや!!」
僕は言葉を失いました。開いた口が塞がらないとは正にこのことでした。結局その場は彼が終わるのを待ち、冷え冷えの空気の中遅れて試合は始まり、僕たちのチームの勝利で幕を閉じました。
さて、なぜ彼はそんな言葉を口にしたのでしょうか。イライラしていたから? 単に怒りっぽい性格だったから? それらもあるかもしれません。しかし僕は、ひとえにそれは彼の甘えだと考えます。視覚障がい者だということに対する甘え。目が悪ければ見えないことを理由に融通がきく、待ってもらえるだろうという安易な思い込み。
現に、今回の件で言えば明らかに彼の準備不足が原因でした。時間がかかるのであれば早めに準備していれば済む話でした。しかし彼はしていませんでした。まさに甘え。待ってもらえるだろうという思い込みです。そういったささいなことでも視覚障がい者だから、目が悪いからと、それを振りかざしてしまうところに、僕は事の重大さを感じざるを得ません。
視覚障がいだから。その言葉を口にするのはあまりに簡単で、それ故に人にしてもらうことに対して当たり前だと、思い込んでしまいます。その言葉の効力は人の善意の上に成り立っているとも気付けないままに。
視覚障がい者だから。その言葉はときに自らを守る盾とも、相手を傷つけてしまう剣ともなりうる危険性をはらんでいると僕は考えます。それはとても怖いことではないでしょうか。
「視覚障がい者だから」確かにそうかも知れません。目が見えないことで上手くいかない時や、どうにもならないことは確かにたくさんあります。
そういった時にその言葉を使いたくなる気持ちは痛いほどよくわかります。目が悪くなければこんなこと出来たのに、以前見えていた時なら何も苦労しなかったのに。見えていれば出来たのに。悔しいけれどいつだって、そんな言葉が頭の中によぎってしまうのです。
だからこそ、この言葉を使いたくなる気持ちはよくわかる。わかってしまいます。しかし、それを言ってしまってはおしまいではないでしょうか。
簡単なことでも、頑張れば出来るようなことでも、その言葉に逃げてしまうからです。
僕はこの一件で改めて視覚障がい者である自分、というものを見つめ直すいいきっかけとなりました。それは彼のように例の言葉を言ってしまうかもしれないという危うさや弱さそして甘え、というものをどこかで自覚していたからかもしれません。
僕は網膜色素変性症という難病によって暗いところは何も見えず視野も日に日に狭くなり、視力も落ちる一方で人に頼らざるを得ない時や何かと助けてもらうことが、恥ずかしながらもよくあります。そういった時に、やはりそれを言い訳にしていろいろな言葉が頭の中によぎってしまいます。なので、だからこそ今回の件のようにはなりたくないし、ならないように、このことを反面教師とし、周りの人の親切を、優しさを当たり前だと思い込まずに、謙虚な心を忘れず感謝して生きていきたいと思います。
なぜなら僕は視覚障がい者だから。
ご清聴ありがとうございました。
「自分なんか、何もできない」誰しも、一度は思ったことがあるだろう。
私は、生まれ持った目の障害のこともあって、特にそう思うことが多かった。いつも後ろ向きで、人間関係もうまくいっていなかった。クラスメートの陰口が、全て自分に向けられたものに聞こえてしまう。私は、そのことのすべてを障害のせいにしていた。「自分なんか、きっと何をやってもうまくいかない」
いつも、そう心のどこかで決めつけて、何に対してもやる気が起きなかった。そんな私に、いつも母は言う。「自分に自信がないから、そんなふうに思うんじゃない? もっと自信持ちなよ」「は? 何言ってんの? 何も知らないくせに……。だいたい自信持てってどうやって?」
そんな私でも褒められればそれなりにうれしいし、そこそこの自信なら持てていた。でもそれは、ほんの一瞬のことでしかなかった。しばらくすると「自分のことを褒めていてくれた人は、本心から自分のことを褒めていてくれていたのか?」と考えてしまう。
「未帆は絵を描くのがうまいね」
そう言われて初めは素直にうれしくて、自信を持てたような気になる。でも時間が過ぎるのとともに、「きっと、お世辞で言ってくれていたのだろう」と思ってしまう。私は今まで、こんなことを何度も繰り返してきた。それでも、一瞬でも自分に自信を持つ方法を、私はこれしか知らなかった。
そんなふうに毎日を過ごしているうちに、私は人のことを信じられなくなってしまっていた。「クラスの男子が、後ろでコソコソ話している。私の悪口を言っているのかもしれない」「クラスの女子が、こっちを見てクスクス笑っている。私を見て笑っているのかもしれない」
いつしか学校も休みがちになり、家族の言うことですら信じられなくなってしまっていた。そんな私に、また母が言う。「もっと自信もったら?」「自信持てっていうけどさ、どうやって持てっていうの?」「そんなの簡単じゃん。自分一人でもできることを増やせばいいんじゃない?」
はっきり言って意味が分からなかった。でも、「やってやろう!」と思った。
まず、一番自分に身近な人間関係のことから克服しよう。「でも、どうやって?」
私は今まで、自分と仲の良い人としか関わってこなかった。自分から話しかけても冷たい反応をされたり、無視されて傷つくことが怖かった。「障害のある私なんかと、話してくれる人がいるのだろうか?」
いつもそんなことを考えて、人と関わることから逃げてきた。ある日の放課後、私が1人で教室で勉強していると、クラスの男子が1人教室に入ってきた。私の数少ない信頼できる人である。しばらくたわいのない話をしていたが、私は思い切って人間関係のことを相談してみた。「ねえ、私、人と関わることが怖いんだ。どうしたら、うまく人と関わるのだろう?」「はあ? 未帆さんなら大丈夫でしょ。もっと勇気出してみなよ」「できるかわからない。でも、やってみよう!」私はそう思った。それから、しばらくしたある日。「未帆。未帆って、どの辺まで見えてるの?」「えっ!?」いつもなら絶対に話さない人に話しかけられた。私はとても驚いた。勇気を出せ、自分! 素直に答えればいいだけだ。「あの辺、とか……」「へー。初めて知った! ありがとう」。すごい! 本当に話せた。嬉しい! なんだか気持ちが軽い! これを自信というのだろうか。ただ、「もっと頑張ろう!」と思った。
それから、私は変わったと思う。誰とでも積極的に関わるようになったし、今までの私なら絶対に引き受けなかった行事の実行委員にもなった。何か新しいことに挑戦することで、毎日の生活が充実したものになった。そして、あれほど嫌だった学校でさえ、心から楽しいと思えた。「これが自信だ!」と思った。私は思う。「自信とは、誰かに言われて持つものではない」
私の場合は、本当に障害のせいで自信が持てなかったのか? それとも最初から、持とうとしていなかったのか? 自分とよく向き合い、今の状況があるのはどうしてか考える。そして今、自分にできることとできないことをはっきりさせ、それを受け入れ、その一つ一つを克服することで、自信を持てると思う。そして自信を持つことで、毎日の生活が楽しくなる。勇気が出る。やる気が出る。
私は今、親元を離れ、新潟県立新潟盲学校へ入学し、寄宿舎へ入舎した。毎日分からないことも多く大変だけれど、自分一人でもできることが一つ一つ増えているのを感じるのが、とてもうれしいし、楽しい。最近、「未帆は生き生きしてるね」とか「こんなに楽しそうな未帆、初めて見た!」と言われるようになった。それはきっと、盲学校に入学してみんなと話したり関わったりしていく中で、「盲学校のみんなは、今までの私とは全く違う」ということに気が付いたからだ。みんなは、私と同じような障害を抱えていても、こんなにも自信に満ちていて、楽しそうで、私よりずっと自立している。「私もこんな人間になりたい!」そんな一種の憧れのようなものを感じた。そうした中で、また新しい目標ができて、それに向かって努力していくうちに、また自分一人でもできることが一つ一つ、でも確実に増えていることを私は感じている。
私の今の目標は、社会に出るまでに自立すること。私はそのために、盲学校に入学して初めて「白杖(はくじょう)」というものを手にした。最初は、白杖をどういう時に使うかすら分からなかった。でも今は違う。ぎこちない部分はあるが、少しずつ上達していると私は感じている。私はこれからも、たくさんのことに挑戦していきたい。いつか自信を持って、自分のことを「好きだ!」と言えるようになるために……。
ご静聴ありがとうございました。
「食べるの大好き、運動苦手」。それが小学部の時の私です。そんな私も中学生になり、陸上を始めました。初めのうちは走るたびにタイムも上がり、気持ちもぐんぐん上向きでした!が……、それも3カ月で途絶えてしまい「どうしたら、もっと速く走れるようになるんだろう?」と悩みながら、部活を続けていました。続けることでタイムもついてきて、「大きな大会に出場したい!」という気持ちも出てきました。そんなある日、体育の授業で整列していると、先生が「今から今年の全国障害者スポーツ大会に選ばれた人を発表します。秋元美宙さん!」。「ええ!! うそでしょ!」。夢か現実か、一瞬分からなくなりました。しかし、それは現実です。「やったー!!」。うれしさのあまり、笑顔がこぼれました。この大会が、今までの自分を大きく変えてくれることとなるのです。
それからは、強化練習会が度々ありました。そこでは、視覚以外の障害がある人たちと会う機会がたくさんありました。例えば、聴覚、知的、肢体不自由などです。「耳が聞こえないと、自分の気持ちは手話がわかる人にだけ話しているのかな? 大好きなJ-POPも聞けないなんて、そんな生活、私はムリだ」。「手足が不自由だと、生活まるごと誰かがずっと介助しているのかな? 一人の自由な時間がなくてかわいそうだな」。そんなふうに思っていました。強化合宿もありました。合宿の女子の部屋は大部屋で、その中で視覚障害者は私だけでした。「みんな、どのようにして日々の生活を送っているのだろう? きっと苦労が多くて大変なんだろうな」と思っていました。でも、どうでしょう! みんな自分のことは、てきぱきと自分でやっています。そして私が、その人たちに助けてもらう場面が度々ありました。聴覚障害の方は手話だけでなく、スマートフォンなどを使い文字で会話をしていました。みんな楽しそうにコミュニケーションを取っていました。肢体不自由の方は、介助者の方に積極的に支援依頼をしながら、一つ一つの生活を組み立てていきます。むしろ、その人と人とのつながりを楽しんでいるようにも見えました。それは、私たち視覚障害者にも通じるところがあります。
ある時、練習が終わり休んでいると、近くにいた男性から「何の障害ですか?」と聞かれたので、「私は視覚障害があって、両目とも全盲です」と答えました。すると、「僕は足に障害があって、義足を付けているんだ。触ってみる?」と、私に義足を触らせてくれました。それは固くて大きくて、足に合わせて作られていました。「こんなに大きな物をはめて過ごしているなんて、動きづらそう……。重くないのかなあ。でも、そんな様子いっさい見せてないし……。自分からいろいろな人に話しかけていて、明るくて素敵な人だなあ」と感じました。私は今まで、「障害者を可哀そうだとは思わないでください」と、散々言ってきました。しかし結局、「自分の障害のことだけで他は何も分かっていなかったんだ」と、そんな自分が恥ずかしくなりました。「『井の中の蛙(かわず) 大海を知らず』とはこういうことか」と痛感しました。その合宿では、「助け合う大切さ」また「どんな障害でもさまざまな工夫によって乗り越えていけること」を改めて知ることができました。誰から見ても魅力的な人になれるかどうかは、「それぞれの障害に対し、本人がどう向き合っているのか」ということなのです。この「大会」で、私は図らずも大きな海、「大海」を知ることとなったのです。
いよいよ大会当日、目の前を高速で走り抜ける車いすの音を聞きながら、「すごい。車いすなのにあんなに速く動けるんだ!」「障害があっても一般のオリンピック選手に近いタイムが出せるんだ!」と感動し、驚きで胸がいっぱいになりました。私がその時獲得したメダルは、単に競技の「メダル」ではなく、そんな素晴らしい世界を見せてくれた「メダル」でもあります。私は今まで、いろいろなことを知ったつもりで小さな池の中をぴょんぴょん跳びはねていた「蛙」でした。でも全国障害者スポーツ大会に出たことで、プラスになる知識、いわゆる少しですが「大海」を知ることができました。これからもさまざまなことに積極的に取り組み、いろいろな人と出会いを重ね、もっともっと大きな「人生」という海を楽しく泳いでいきたいです。ご静聴ありがとうございました。