一人で生きていける?
私がそれを実感したのは、母が亡くなってからのことがきっかけでした。自立について真剣に考えたのも、周りの人のありがたさを知ったのも、母のことがきっかけでした。
母はもともと体が弱い人でした。私を生むときも命がけでした。私が小学校に上がった頃から、透析で通院もしていました。でも、母は強い人でした。しんどいことはたくさんあったと思うけど、いつも笑顔の人でした。母は友達を作るのが上手でした。ケンカし合える友達もいたし、友達の愚痴を聞くこともありました。怒るときは思い切り怒るし、笑うときは思い切り笑う人でした。家では、ヘルパーさんの力を借りながら、私の好きなご飯を作ってくれたり、家族の洗濯をしてくれたりしました。私がつらいときには寄り添ってくれたり、話を聞いてくれたりしました。
私が中学3年生の6月、母は突然倒れました。脳幹出血でした。それからあっという間に母は亡くなってしまいました。私は、だんだん冷たくなる母の手を握りながら、お母さん、お母さんと泣き叫んでいました。
母がいなくなってからの生活は一変しました。
それまでは自分がやるべきことだけをしていればよく、家事も練習しなければと思っていましたが、そのうちやればいいかと思っていました。しかし、そうではなくなりました。生活面でも精神面でも支えてくれていた母がいなくなり、私は初めて、今まで当たり前だと思っていたことが、そうではないのだと気が付きました。
「自立しなきゃいけない」と思いました。「誰かにしてもらえて当たり前」だったのが、「自分でできなくては」に考え方が大きく変わりました。それからは、自分でも時間をやりくりして、料理も買い物も勉強も、必死に頑張り始めました。一人で生きなきゃだめだと思いました。
そんな時、たくさんの人が私を助けてくれました。ご飯を心配して、祖母がおかずを作って持ってきてくれたり、スクールバスのお迎えに来てくれたりしました。おばも私と一緒に買い出しに行ってくれたり、母と同じレシピでから揚げを作ってくれたりしました。母が亡くなって1カ月ごろにあったPTAバーベキューでは、友達のお母さんがおにぎりを持たせてくださいました。「ご飯食べれてる?」と心配もしていただきました。ありがたいなと思いました。
それまで母が書いてくれていたたくさんの学校の書類は、父が書いてくれるようになりました。役所の人たちもいろいろ助けてくださいました。それがお仕事なのかもしれないけれど、いてくれたことで救われました。
近畿弁論に進むことになり、母が「見に行きたい」と言っていたことを覚えていたボランティアの方が、母の代わりに奈良まで見に来てくださいました。学校の先生も、家に来て今後のことを相談してくださったり、自立活動の時間にもたくさんお話を聞いてくださいました。友達も私のことを考えてくれて、いつも通りふるまってくれたり、優しく声を掛けてくれたりしました。それがあったから、私は毎日学校に行くことができたのだと思います。
周りの人のありがたさに、母を亡くして初めて気がつきました。今思うと、感謝の気持ちでいっぱいです。自分で頑張ることも大事だけど、何もかも一人で頑張らなくてもいい。人と一緒にいることは楽しいことなんだ。何かあったときに寄り添ってくれる人は必ずいるんだよ、と母が教えてくれたのだと思いました。
もちろん一人で電車にも乗りたいし、大学にも行きたい、一人暮らしもしたい。でも、誰かと生きるほうが楽しいと思うから、家族も作りたい。誰かと支え合って生きていくことで喜びやぬくもりを分かち合えるかもしれない。そう思います。自立することの大切さも、周りの人のありがたさも、今を一生懸命生きることの大切さも、母が私に、最後に教えてくれたことなんだと思います。
母と過ごした日を振り返ると、母はいつでも温かかったし、どんな時でも寄り添ってくれていました。つらいときには「頑張らんでもええ、踏ん張るだけでええねんで」と教えてくれました。
だから私は、今の自分を大切にしたいです。
それから母は「生まれてきてくれてありがとう」「花さんに会えてうれしかったよ」とよく言ってくれました。
これから私は、先生や友達や周りの人とたくさん笑います。母のように、全力で悩み、全力で笑いたいです。そして、母が私を支えてくれたように、私も誰かを支えられるようになりたいです。
今、私は前を向いて新たな一歩を踏み出しました。お母さん、私を産んでくれてありがとう。15年間、一生懸命育ててくれてありがとう。
普段私たちは、社会や人と関わりながら生きています。他者と関わりを持つことはとても大切です。しかしながら私は人との関わりが少なく、とても狭い世界に生きているように感じていました。そこで、高校1年の時に自分の世界を変えようと思い、この今いる狭い世界から一歩踏み出そうと、二つのことにチャレンジしました。
一つ目は明石塾を受験したことです。明石塾とは国際的な場で活躍のできる若者を育成するための群馬県の取り組みです。県内の高校生たちが群馬県立女子大学に集まり、英語を用いて授業やグループ活動などを行います。
明石塾に参加するためには、まず試験に合格しなければなりませんでした。一次試験では、作文を書いて提出しました。内容は自己PRと明石塾で学びたいことでした。二次試験は県立女子大で、筆記試験と英語での面接が行われました。筆記試験の内容は、食糧難をはじめとする世界の貧困問題に先進国はどのように対処すべきかというものでした。英語での面接は、趣味や明石塾を受けた理由、明石塾でなしとげたいことなどを聞かれました。
他の高校の生徒と共に試験を受けて、試験監督に、緊張がここまで伝わってくるよと言われるほど緊張していましたが、無事に合格することができ、私は明石塾20期生になることができました。
明石塾では、さまざまな授業やグループ活動に参加しました。英語だけでなく、群馬県や日本、世界について幅広い知識を得ることができ、大学の授業も受けることができました。ここで私は多くの生徒と関わり、中には私と同じ多国籍のルーツを持つ生徒もいて、互いに日本語と英語を使ってコミュニケーションを深めました。互いが持つ他国での経験について語り合えた事は貴重な体験でした。また、参加生徒の中には、世界で通用する医師になりたいという人や英語を使って海外で活躍したいという生徒もいて、人数の少ない盲学校に通っている私にとっては、この経験はとても刺激的でした。授業などで互いに議論し他の意見を取り入れたり、自分の意見を相手に伝えることは、自分の知識を広げるだけでなく相手の世界も広げられるように思えて達成感がありました。
二つ目はゴールボールの代表合宿に参加したことです。ゴールボールとは、アイシェードという目隠しをつけながらボールを相手のネットに投げるスポーツです。高校1年の夏、女子日本代表のコーチから誘いがあり、ナショナルトレーニングセンターで練習を許可されました。ここで私は多くのことを学びました。技術力の向上だけでなく性格も厳しく正されました。その中で敬語の使い方や必要性を学びました。また、体力をつけるためには食事の栄養バランスがとても大切だと気づき、偏食も治りました。
練習はとても厳しいものでしたが、ゴールボールという視覚に障がいがあっても全力を尽くせる競技で、どこまで自分を高められるか、と考えると頑張ることができました。合宿に参加している選手たちは、全員が目標のために努力をしていてゴールボールにかける気迫を強く感じました。私も彼らのような精神力を身につけたいと思い、今も努力し続けています。
私はこの二つの経験から、さまざまな世界を知ることができました。そして、自ら何かを変えようという気持ちがなければ何も変えることができないということも学びました。一歩踏み出そうとしたことで、たくさんの気づきや出会いがありました。明石塾では、語学で広がる視点や、勉学で切り開ける世界があることを私に教えてくれました。
ゴールボール合宿では身体能力が高まり、自分の性格や生活態度の見直しを行うことができました。そしてスポーツに全てをかけ、世界の頂点に立とうとする選手たちと共に競技を行えたことは誇りに思います。
私は今、スペイン語の勉強をしています。世界中の人々と関わり合えることはとても楽しいことだと感じています。そして、将来は人と人とが言語や文化の違いに関係なく関わり合えるための懸け橋のような存在になりたいと考えています。私はこれからも未知の世界に身を放り投げることをためらわず、一歩ずつ世界に踏み出して行きます。
私は中学2年生の時に、かけがえのない存在だった父を亡くしました。
当時、東京の視覚特別支援学校に在籍していた私の帰省は月に2回だけ。移動の時間を合わせると、正味1日しか家族と過ごすことができませんでした。ちょうど思春期を迎え、父との会話もぐんと減ってきた頃でした。大黒柱である父ががんに侵されていることがわかったのです。しかし、父は、私たち兄弟にはっきりとした病状を知らせることはありませんでした。それは、「みんなを悲しませないように」という家族への優しさと、そして「絶対病気を治してみせる」という決意からだったのかもしれません。たしかに「そのときに病状を知らせてほしかった」と思うこともありました。けれども、知らなかったからこそ当たり前に過ごすことができたことを考えると、かけがえのない時間をつくってくれた父の優しさには、今は感謝しかありません。
私は父を心から尊敬していました。だれに対しても親切で優しい、太陽のように強く明るくみんなを照らす存在でした。父の周りにはいつも明るい笑い声であふれていました。職場でもリーダー的な存在で、同僚にも信頼されており、闘病中も周りの人を気遣っていたそうです。やせ細った体でギリギリまで仕事を続けていたと職場の人から聞きました。
「そんな尊敬する大好きな父と、もっとたくさん話したかった」
けれど、父の病気になんとなく気づいてしまった私は、ぶつけようのない怒りや不安、そして絶望で頭がいっぱいになり、さらに父との会話は減ってしまいました。
そして……。亡くなる直前でさえ、私は父に感謝の言葉を伝えることができなかったのです。なぜなら、変わり果てた父の姿に言葉を失い、重い現実を受け止めることができなかったからです。せめて父に「ありがとう」と伝えたかった……。
この出来事があってから、「声に出して伝えていきたい言葉」について考えるようになりました。私には「ありがとう」と同じくらいに大切にしている言葉があります。それは「おはよう」「おやすみ」「いってきます」「いってらっしゃい」「いただきます」「ごちそうさまでした」「ただいま」「おかえり」「ごめん」「おつかれさま」です。これらの言葉は確かに誰もが口にする当たり前の言葉です。しかし、この「当たり前」の言葉は人と人とをつなぐ始まりの言葉、人と心を開いてつながるきっかけを作る大切な言葉です。口にした本人だけではなく、相手を幸せに温かい気持ちにする、無限大の力を持つ言葉です。だから、この無限大の力を持つ言葉を、相手に顔を向けて、気持ちを込めて伝えていきたいのです。
にもかかわらず、日常を振り返ると、伝えきれていない事もあります。私たち兄弟のために一生懸命働き、疲れていてもおいしいご飯を作ってくれる母。感謝しているのに素直になれず、「おやすみ」の一言が言えなかったこともあります。私を心配してあれこれ聞いてくる母に、ちょっとした言葉のすれ違いから意地を張って、「当たり前」に言えるはずの言葉を伝えきれていないのです。家族など身近に感じる人にほど、心では思っていても、なかなか声に出して伝えられないものなのかもしれません。
皆さん、皆さんにも「伝えきれていない言葉」はありませんか? 照れくさかったり、当たり前すぎて、今度にしようって思っている言葉はありませんか? 言葉は声に出して伝えないと、本当の気持ちは伝わらないのです。そして、伝えたいときにいつでも相手がいるとはかぎらないのです。当たり前にあるはずの日常は、実は奇跡ともいえるのです。
私は二度と後悔したくない。だから、私は無限大の力を持つ当たり前のこれらの言葉を、たとえ、その人との関係が悪い時にでも、必ず伝えていこうと思います。「ことばの力」で人を幸せに、そして自分も幸せにしていきます。コロナ禍で、人と人との距離がある今だからこそ、皆さんにも「ことばの力」を大切にしてほしい。そうすれば、「ことばの力」はやがて海を渡り、幸せに満ちあふれた世界になるのではないでしょうか。
パパ!
伝えられなかった「ありがとう」。遅くなったけれど、今伝えます。本当にありがとう!!
パパのおかげで声に出して伝える大切さに気付いたよ。「ことばの力」で人とつながり、パパみたいに強く生きていきます。天国で見守っていてね。
ご清聴、ありがとうございました。