2013年の春、私は地元の小学校に入学した。
楽しみな気持ちを胸いっぱいに始まった学校生活。だが、その期待と希望は裏切られ、私の学校生活はひどく冷たく苦しいものとなった。
入学してからの視力検査でのこと。私は検査に引っかかり、地元の眼科へ行くことになった。診断結果は右目は緑内障、左目は生まれつき完全に失明状態だった。
だが、私はそこまで驚かなかった。だって、その見え方が私にとって全く当たり前なものだったからだ。ただ一つ、わかったことは「自分は視覚障害者、障害者なんだ」ということだけだった。
慣れない眼鏡をかけ、一生懸命授業についていこうとしても、なかなかみんなのようには受けられなかった。自分の視覚障害について、いくら周りに説明をしても、クラスメートはおろか、担任も誰一人として私の視覚障害に理解を示そうとしてくれる人はいなかった。
毎日、「なんで見えないの? なんでわからないの?」と冷たいナイフのような言葉を突き刺され、本当につらかった。いつしか私は人との距離を取るようになり、心を閉ざしてしまった。
そんな時、私に転機が訪れた。それは塙保己一学園盲学校との出会いだった。盲学校という存在を知り、驚きと興味で胸がいっぱいになった。なぜなら、以前、見えづらい中、1人で走っていたマラソン大会中に「私みたいに目が見えづらかったり、見えなかったりする子たちがたくさん通っている学校がどこかにあればいいのになぁ」と考えていたからだ。
「ここでだったら、元の明るい私に戻れるかもしれない。悩みを分かち合えるそんなすてきな友達に出会えるかもしれない。」と強く感じた。そして小学5年生の時に盲学校への転校を決め、小学6年生、新しい場所での新しい春がはじまった。
迎えてくれたクラスメートや先生方は、とても温かく、優しさに満ちていた。転校して間もなく、私は病気の進行で右目もほぼ完全に見えなくなってしまった。いきなり見えなくなってしまったことに絶望し、毎日1人で人目のつかないところで泣いていた。だがそんな時、クラスメートや先生方は、私に「点字」を教えてくれた。いきなり見えなくなってしまったことがショックで最初は点字を覚えるやる気もわかず、点字迷路をたどることすらもさっぱりわからなかった。だが、なかなか読めなくて自信を失いかけていたときにクラスメートや先生方が私に「ファティマならきっとできる。大丈夫だよ。頑張れ!」と優しく肩をたたき、励ましてくれたおかげで、何とか点字の読み書きができるようになった。おかげで私は「見えないから何もできない、ではなく、見えなくても見えづらくても工夫をすれば努力をすればできるようになること」を知り、とても心が救われた。
お互いこれまでの経験を話すと、「ああ、それわかるわかる」などと共感を得られてとてもうれしかった。マラソン大会ではガイドロープなどを使って一生懸命走ることに感動と楽しさを覚えた。たとえつらいことや苦しいことがあっても、信頼のおける先生方が優しく話を聞いてくれ、初めて先生という大人の温かさに触れることができた。お互いの障害に対してばかにしたり、責めたりもせず、本当の意味で助け合って過ごす。そんな毎日がとても楽しかった。
それから徐々に前の「明るい私」に戻っていき、たくさんの友達にも恵まれた。
私は盲学校に転校するまで、人目を避け、自分の障害を他人に悟られないようにして生きてきた。だが、ここで出会った友達や先生方とは恥ずかしがることもなく、素直に自分の視覚障害について話し、お互いに理解をしあい、寄り添い合うことができた。
皆さんもきっと1度や2度は自分のことで悩んだり、苦しんだりした経験があるだろう。だが、安心してほしい。自分のことを理解してくれる、自分に寄り添ってくれる人たちは、必ずどこかにいるはずだから。どうか、どうか自分をつくろわず、あなたのままでいてほしい。そして自分の殻にとじこもらず、広い世界へ飛び込んでいってほしい。そうすれば、きっとあなたにとって「大切な場所」が見つかるはずだから。
「I have a dream.」
これはアメリカのキング牧師によってなされた演説の一節です。彼の夢は「皮膚の色や出身などに関係なく、あらゆる市民を対象とした平等な保護の実現」という非常に壮大なものでした。誰もが持つであろう将来の夢。けれど、幼い頃から視覚障害のあった私は、物心ついたときには前向きに自分の将来を見通せなくなっていました。
「こぉのこと、泣かせてみたいわ」「〇〇くんがな、ここのこと、消えてくれんかなって言いよったよ」。どちらも中学時代に友人から言われた言葉。でもその時の私は、周りに何と言われようと傷つくことはありませんでした。そんな私に貼られたレッテルは「心のない子」。
けれどいつからか、私は人の目を見ることができなくなりました。落ち込んでいるとかいらだっているとか、相手の目を見れば、それが自分に向けられた感情なんじゃないかって緊張してしまう。結局は、気にしない「フリ」をしていただけで、人の心を直視するのを避けていただけなのかもしれません。
現在、私には視覚障害に加え、運動障害もありますが、周りの人のおかげでこうして何不自由なく暮らせているのだから、と割り切っていた、つもりでした。でも、どこかで周りの健常者に引け目を感じていたのでしょう。
昨年の夏、私は筋力が低下している原因を探るために、東京の病院に9日間入院しました。そこでリハビリをしている時に、作業療法士の先生に「地元のお祭り、行かないの?」ときかれ、「同級生に会いたくない」と、気づけばそう答えていた私。「普段、友達と遊んだりしないの?」という質問にも「車いすだと迷惑かけるから……」と、そんな言葉が無意識に口をついて出ていました。服も、靴も、着ていくところが、履いていくところがない。何気なくそう言うと、翌日その先生は、車いすユーザーがよく使う店やアプリ、交通機関の使い方などが詳しく書かれた資料を用意してくださっていて、車いすユーザー用に持っている服をリメークしてくれる会社があることも教えてくださいました。
私の身体(からだ)について負い目を感じている母にも、健常者の友人にも相談できなかったことを、聞き流してくれてよかったことを、もう二度と会わないだろう人に聞いてもらって、それに答えが返ってくるだなんて思いもしなかった。
「ありがとうございます」。そう言った私に、その人は「好きな服を着てる心音ちゃん見てみたい」と、言ってくださいました。私はなんだか訳の分からない気持ちになった。ただ、今度買い物に行ったときには「この言葉思い出すんやろうなぁ」と漠然とそう思いました。
その出来事があって、初めて自分の心に向き合ってみると、友達と自由に遊びに行っている兄弟を、元気に走っている後輩を見て、うらやましいと思っている私がいました。それだけじゃなく、最近メークにはまっている中学生の妹は、視力や色覚に何の異常もないからそういうことを楽しめるんだ、なんて卑屈な考えを持っていることにも気付いてしまいました。実際に会ってきける勇気はなかったから、中学校からの友達に「車いすやけど遊びに行きたいって言ったら付き合ってくれる?」と、思い切ってメッセージを送った。すると友人たちはそれぞれがそれぞれの言葉で、私の意見を肯定してくれました。看護師を目指す友達からは、「車椅子実技満点の私に任せとけい!」と返ってきて、本当に行っても安心だなと、少し笑ってしまいました。
心に向き合う、心の動きを、心の音を聴く。「心音」。両親がくれたこの名前のように、心の奏でる音に耳を傾け、いつも向き合っていたい。そして、周りの人の心にも真摯(しんし)に向き合っていきたい。今、素直にそう思っている私がいます。
「Do you have a dream?」
「I have a dream!」
私には、夢がある。人の心が分からなかった私が、心に正面から向き合うのが苦手だった私が、抱いた夢。大学で児童心理を学び、経験を積んで、子どもたちの心に関するエキスパートになること。将来は、私にとっての作業療法士の先生のように、子どもたちが気軽に愚痴や悩みを吐き出せる「誰かの他人」になりたい。家族でもなく、友人でもない、「ほんの少し誰かの背中を押せる他人」になりたい。
昨年の夏、私の心に小さな、でも確かな夢が芽生えた瞬間でした。
まずは、メークして、好きな服着て、一歩前に出ることから始めよう。
「おはよう、峻輝(しゅんき)。高くそびえる山を表す峻という字に輝くと書いて峻輝。気高い山の上で輝けるようにという願いを込めて名付けられたそうだ。うん、確かに彼は名前の通り輝いていた。そして、今も輝き続けている」
私にとって学校とは、いろいろな考え方を身につけられる場所であり、クラスメートとは友達とはまた少し違う、自分を成長させてくれる存在だと思っている。そして、私にとって「生きる」とは、流れ作業のようなものであり、何の感情も持たないものだと思っていた。昨年の夏、私はクラスメートを亡くした。
振り返ってみると、彼と声と声で話をしたことは一度もなかった。ただ、何となく気持ちが通じ合うような気がしたのを覚えている。私たちには彼が病と闘っていることは伝えられていなかったが、学校を欠席することが多く、オンラインで授業に参加している様子から「恐らくそうなのだろうな」とは思っていた。オンラインでつながる機会が少なくなると不安になり、でも画面に映る彼の姿が見えるとホッとした。同じ教室にいなくても、「私たちと一緒にいてくれてる」と思え、私たちは4人なのだと実感できた。
クラスメート全員で迎えた入学式だったが、2年生の始業式は3人で迎えることとなった。学校に来る機会も、オンラインでつながることも、1年生の頃に比べると格段に数は減っており、私は毎日「きっと来てくれる」と自分に言い聞かせるようになっていた。1学期終業式の日、私は誕生日を迎え、17歳になった。流れ作業をこなした年数が、また一つ増えたと思った。その翌日が、私にとって忘れられない日になるとは、この時思ってもみなかった。
忘れもしない、7月22日。別のクラスメートから「電話できる時間教えて」とLINE(ライン)が来た瞬間、いつもとは違うと私は感じ取った。続けてきた「峻輝が病院で息を引き取った」という文面を目にした瞬間、自分の周りの時間が全て止まった気がした。「……うそやろ?」。クラスメートの母が、私も一緒にお通夜へ連れて行ってくださった。行きたいけど、行きたくない。移動中の車の中でも、まだ信じきれていない自分がいた。今、私、笑えてる? 今、自分がどんな気持ちなのか自分でも分からなかった。それからのことは、もうあまり覚えていない。ただただ涙があふれてきて 、気付いたらぐちゃぐちゃになっている自分がいた。
「いつまでもこの悲しみから逃げてちゃいけない」そう思えたのは、9月の後半にあった宿泊学習がきっかけだったと思う。クラスメート4人でもっといろいろな場所に行きたい、4人でたくさん楽しい思い出を作り上げていきたい。そして、彼に届くほど私自身が幸せになろうと、笑おうと思うようになれた。それはきっと彼が私に教えてくれたんだと思う。「幸せを見つけるために生きるんだよ、光は顔を上げなきゃ見えないんだよ」って。
私の「今」は、少しの光とたくさんの後悔でできている。そして、これからもそんな後悔を私はくり返していくのだろう。でも、彼との出会いと別れを経験して、私は過去だって、後悔だって、すべて抱きしめて生きていきたいと思えた。これからは、強い光が呼ぶほうへ行きたい。いつか、私が私自身を抱きしめられるように。そして、いつか、これを聞いてくれるだろうあなたのことも抱きしめられるように。