住友の都市美学「住友営繕」とその背景

「住友営繕」が手がけた建築には、名建築が少なくない。
それは、十五代家長友純とすぐれた建築家たちが生み出したものだった。

はじめに

「住友営繕」が描き実行した美意識とはなんであったか。この問いに答える術について、筆者は次のふたつの解を用意したい。ひとつは華麗な建築家の集団であったこと。ふたつめは第15代家長・住友吉左衞門友純(号・春翠)との美学の共有があったのではないかということである。
本来会社の営繕の仕事とは、企業の発展のための縁の下の力持ちの立場であり、地味な役割が一般的である。しかし住友の営繕にはそのような雰囲気はなかった。それはこの組織が当初〝住友本店臨時建築部〟という輝かしい名前の下に発足したからである。そのため当時斯界のすぐれた人材が多く集められた。
また、第15代家長春翠が建築に関心をもち、子飼いの建築家に自邸をはじめ多くの建築を担当させたことがあげられよう。

住友吉左衛門友純
写真右 第15代家長・住友吉左衞門友純。住友営繕の都市美学に大きな影響を与えつづけた。写真下 住友本店臨時建築部一同の写真。前列左から3人目が野口孫市。
写真提供 坂本勝比古
住友本店臨時建築部一同

華麗な建築家群像

大阪府立図書館内部
写真上 大阪府立図書館(現在の大阪府立中之島図書館)内部、中央ドーム下の螺旋階段。野口孫市らが設計し、1904年に完成した。
撮影 普後 均

「住友営繕」の始まりは、今から一世紀前の1900(明治33)年に創設された臨時建築部で、住友家が新しい時代に対応した銀行業を起こし、全国各地に支店を建て、その総元締としての本店を建築するという、壮大な計画から生まれたものであった。
このため、まず野口孫市(1894年帝国大学工科大学造家学科卒、1869年~1915年)に白羽の矢が立てられた。野口は優等で卒業して大学院に進み、逓信省に在職中だった。野口は住友に採用されるに際し欧米の建築調査の機会が与えられ、その成果は、さっそく大阪府立図書館(現在の大阪府立中之島図書館)、須磨別邸の建築に反映された。大阪府立図書館は当時上野の帝国図書館でさえも未完成の時代に、堂々たる古典様式の洋風建築として、大阪府民に寄贈公開されたものであるだけに、住友家の家長の面目躍如たるものであったことは想像にかたくない。須磨別邸の建築も、欧米視察から帰国して大きなカルチャーショックを受けていた春翠にとって、大変お気に入りの建物となり、やがては大阪鰻谷の本邸を出て、一家揃って須磨に本拠を移すほどであった。

建築部発足と同時に採用された日高胖(1875年から1952年)も、野口の後輩で、須磨別邸の建築にも関与し、自らはわが国で最初期のアールヌーヴォーといわれる1904(明治37)年竣工の神本理髪店を手がけるなど、その才能の片鱗を示している。日高は野口を援け、野口亡き後も住友総本店営繕課の責任者として、大きな活躍を果たしている。住友銀行(現在の三井住友銀行)の東京進出の拠点として、力作となる1917(大正6)年の東京支店は、ルネサンス調の重厚な建築であったが、1923(大正12)年の関東大震災に際し、周囲が猛火に包まれるなか、倒壊もせず厳然と立ちつくした姿は、東京市民に住友銀行の存在感を強くアピールしたといわれている。

須磨別邸
写真左上 野口孫市設計の須磨別邸。竣工は1903年。友純はこの家をたいへん気に入っていた。
写真提供 坂本勝比古
住友銀行東京支店
写真左下 住友銀行東京支店(後に日本橋支店となる)。日高胖の設計で、関東大震災にも耐え、住友銀行の存在を東京市民にアピールしたという。
写真提供 坂本勝比古
三井住友銀行大阪支店外観 コリント式の柱列
三井住友銀行大阪本店(旧住友ビルディング)。住友本社がここに入っていた。1926年に北半分が、1930年に南半分が竣工した。小さめの窓、厚い壁を配したひかえめな外観(写真左)とは対照的な内部空間における華麗なコリント式の柱列は圧巻(写真右)。写真は1999年当時。
撮影 山下恒徳

日高に次いで住友入りする長谷部鋭吉(1885年から1960年)は、1909(明治42)年東京帝国大学建築学科の出身で、在学中からデザインに対する才能が認められていた。彼は人格や芸術的な力倆においてもすぐれ、後に住友営繕の意匠における指導的役割を果たすことになる。
1917年に長いイギリス留学から帰国し住友営繕に入った竹腰健造(1888年から1981年)は、1912(明治45)年東京帝国大学建築学科の出身。イギリス留学中にエッチングの作品で、イギリスの権威あるロイヤルアカデミーの展覧会に入賞する腕前をみせた。1915(大正4)年に野口を失った住友営繕にとって、本店建築を間近にし、またとない人材の確保となった。また竹腰は語学にも堪能で、しばしば家長の接待の通訳を受け持っている。
このふたりの才能を示す好例がある。1918(大正7)年に行われた聖徳記念絵画館懸賞設計に応募し、長谷部が2位 、竹腰が3位に入選という朗報がもたらされた。民間企業にあって、このようなコンペに応募すること自体、大変な努力がいるものであるが、同時に住友営繕の実力の深さをあらためて感じとることができる。

住友営繕には、このほかにもデザイナーとして優れた才能をもった建築家たちがいた。その中核となったのが、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)出身の人々である。この学校は、イギリス留学から帰国した建築家武田五一(後に京都帝国大学教授、1872年から1938年)が意匠面を指導し、浅井忠(洋画家、1856年から1907年)も教授を務めるという、わが国でも数少ないデザイナーを養成する高等教育機関であった。
この学校の図案科卒業生のなかで、第1回卒業生の小川安一郎(1882年から1946年)をはじめ、三木辰三郎、平尾善治、津山達夫、河盛益太郎らが住友営繕の門をくぐっている。また異色の存在として、早稲田大学出身の笹川慎一(1889年から1937年)らがいた。ほかにも書き残した人材は少なくないが、これらの顔ぶれをみても、住友営繕という組織がいかになみなみならぬ美意識をもって活動していたかがうかがえよう。紙数が足りなくて、その詳細にとても踏み込めないのだが、彼らの活動の真価は単に公的、実務的な建築にとどまるものではなく、家長の住まいや私的な住宅にもその美意識の発露が見られた。

住友春翠と建築家たちは、都市と建築に対して美学を共有していた。

住友家と建築家たち

このような錚々たる建築家たちが、力倆をいかんなく発揮できた背景には、やはり住友家第15代家長春翠との美学の共有を考えざるをえないのではないか。春翠は京都の公家のなかでも家格の高い徳大寺家の出であり、幼少の頃から身につけた教養と品格は、住友家の養嗣子となっても、少しも揺らぐものではなかった。また彼が尊敬した次兄の西園寺公望(政治家、1849年から1940年)は、国際的感覚豊かな教養人であった。春翠は欧米を視察し、かの地の貴族階層の社会的役割についても多くを学び、大阪府立図書館の寄付もその考えに触発されたものである。須磨別邸の炎上とともに失われた黒田清輝(洋画家、1866年から1924年)の〝朝妝〟の購入は公望の助言に負うところが大きい。春翠がイギリスの貴族の生活に魅せられ、子女の教育にイギリス本国より人を招いて家庭教師としたことはその一端をうかがうに足ることである。

現寸図1
現寸図2
上 旧住友ビルディング内銀行本店営業室入り口上部現寸図。
下 旧住友ビルディング内銀行本店営業室柱頭飾り現寸図。

もとより春翠がジョン・ラスキン(John Ruskin イギリスの芸術批評家、思想家、1819年から1900年)やウィリアム・モリス(William Morris イギリスの詩人、工芸美術家、1834年から1896年)の芸術論にどれほどの関心があったかはさだかではない。しかし野口孫市が世紀末のヨーロッパを訪ね、自ら美術雑誌〝スチュディオ〟(Studio)を購入し、アーツアンドクラフト運動に理解を示したであろうことは、彼が手がけた伊庭貞剛邸(現在の活機園)の室内各所にその証を読みとることができる。
アーツアンドクラフト運動は、機械文明批判から生まれたものであり、手工芸の持ち味を大切にしたいという発想は、イギリスに学んだ野口や武田や竹腰に共通してみられるところであった。アールヌーヴォーに先行して興るイギリスのアーツアンドクラフト運動には、フランスのアールヌーヴォーのような華やかさはなく、むしろひかえめで堅実なデザインでまとめられている。このような工芸運動に通ずる作品は、住友の場合、銀行やオフィスのような公的な建物ばかりでなく、私的な住宅においてもその持ち味が発揮されていた。住友の建築家の場合、その美的欲求は、総理事や重役たちの私邸へも向けられていたということができる。
住友家の本邸、別邸をはじめ、総理事、各理事の私邸には、営繕の建築家の多くが参加している。それは決して華美を求めるものではなく、堅実な味わい深い意匠が和洋を通して用いられていた。春翠は洋風への興味と同時に、日本の伝統的な意匠やしきたりに基づく造形についても関心があったものと思われる。
春翠が抱いた美意識と営繕の面々が試みた美的創造への努力は、多くの点で共通した認識に基づいていたのではないだろうか。その根底にあったものは、家長と営繕部門の信頼関係の深さではなかったかと思う。
1931(昭和6)年、日高胖が定年退職の時期を迎えたとき、住友では長年の労をねぎらい、二等末家に編入という待遇がとられた。そこには、あたたかい主従の関係が読み取れるのである。

坂本勝比古
文・坂本勝比古
Sakamoto Katsuhiko
神戸芸術工科大学名誉教授。1926年中国の青島生まれ。神戸工業専門学校(現在の神戸大学工学部)卒業。工学博士。神戸市役所在勤中から神戸居留地と異人館群を研究。阪神大震災による歴史的文化遺産の被害状況調査と復旧にも尽力。異人館博士として知られる。著書に『日本の建築−−明治・大正・昭和』(三省堂)、『明治の異人館』(朝日新聞社)など。96年第22回明治村賞を受賞。

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