「住友営繕」の始まりは、今から一世紀前の1900(明治33)年に創設された臨時建築部で、住友家が新しい時代に対応した銀行業を起こし、全国各地に支店を建て、その総元締としての本店を建築するという、壮大な計画から生まれたものであった。
このため、まず野口孫市(1894年帝国大学工科大学造家学科卒、1869年~1915年)に白羽の矢が立てられた。野口は優等で卒業して大学院に進み、逓信省に在職中だった。野口は住友に採用されるに際し欧米の建築調査の機会が与えられ、その成果は、さっそく大阪府立図書館(現在の大阪府立中之島図書館)、須磨別邸の建築に反映された。大阪府立図書館は当時上野の帝国図書館でさえも未完成の時代に、堂々たる古典様式の洋風建築として、大阪府民に寄贈公開されたものであるだけに、住友家の家長の面目躍如たるものであったことは想像にかたくない。須磨別邸の建築も、欧米視察から帰国して大きなカルチャーショックを受けていた春翠にとって、大変お気に入りの建物となり、やがては大阪鰻谷の本邸を出て、一家揃って須磨に本拠を移すほどであった。