ふり返る

その光景を見た日、心は一日中あたたかかった。駅へと急ぐ人が多い郊外の出勤風景。そのピークが少し過ぎた時間だった。ふと目をやると、家の前で50歳を超えたぐらいの主婦が駅への道を見つめていた。別に詮索する気はなかった。ふと視線を追って前方を見ると、夫とおぼしきサラリーマンふうの男性が歩いていた。 「はは~ん、夫を見送っているんやな。ええ風景やなぁ」と感心した。

そのときだ。突然夫がふり返り、右手を顔のところまで上げて小さく振り「バイバイ」をしたのだ。「行ってきます」の意味だろう。それを待っていたかのように、奥さんも右手を振って応えた。ふたりとも満面の笑みを浮かべていた。私の「感心」はそのとき「感動」に変わっていた。

その後、こんな意地悪なことも考えてみた。もし夫がふり返ったとき、そこにいるはずの奥さんがいなかったら、夫のショックはいかほどのものだろうか。「ふり返ること」が大切なのではない。ふり返って「確認するべきもの」−−今回の場合でいえば笑顔で見送ってくれる奥さん−−が大切なのではないか、と。

われわれがふり返って確認しなければならないものは、現在たくさんあるように思われる。社会全体を対象にした場合、歴史がある。人類は、この地球に出現して以来進歩を重ねてきたといわれるが本当なのだろうか? 差別は、なぜ、いつから存在するのか? 明治維新という革命を成功させて、先進国の仲間入りを果たした日本は、なぜ太平洋戦争に突入していったのか? いや、もっと根元的に日本人とはどのような生物学的特徴をもち、どこから来てどこに行こうとしているのか? 日本という国はいつできたのか?

国より小さな規模である地域、企業(会社)、家族、個人の各レベルでもふり返り、確認しなければならないことも多い。初心という言葉がある。何かをやろうと思い立った当初の純真な気持ちだ。それを忘れたまま生きる人、創業の精神に目をつぶって利益のみを追いかけて自滅してしまった企業……。

前を見て進むことは、大切だ。20世紀は「前へ前へと歩きつづければ、人類の、日本の前途は明るい」と誰もが信じた世紀だった。その結果、環境や食糧、人口などの大きな問題が生じて、人類が乗った宇宙船「地球号」は誕生以来最大の危機を迎えている。

21世紀はそうした過去を総決算しなければならない世紀だ。前へ進むだけでいいのか。どこへ進むべきか。立ち止まって、ふり返って、過去を正しく確認し、行く末を真摯に考えなければならない。人類に残された時間は、意外と少ないのかもしれない。

Yoshii Hidekazu
毎日新聞大阪本社総合事業局長。1946年大阪府生まれ。70年早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。同年4月、毎日新聞社に入社。2001年4月より現職。和歌山支局長時代、和歌山放送(ラジオ)の「情報アンテナ・ニュース発見」のゲスト・コメンテーターを1年半務めた。おもな著書に『コープさん』(毎日新聞社)、『雨天決行 まつりへのドラマ』(いんてる社)、『離婚後の妻たち』(朱鷺書房)、『どのくらい大阪』(いんてる社)など。

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