なかでも、1691(元禄4)年、住友家が開坑した別子銅山は、1973(昭和48)年の閉山までおよそ300年間、住友家およびその関係企業が一貫して経営を続けてきた世界的にまれな鉱山である。そのため、ひとつの経営理念に基づいた産業遺産が、四国山脈の海抜1300メートルの別子山上から、瀬戸内海の海上はるか20キロメートルの四阪島まで、時間と空間を超えて広く点在している。
明治維新時、欧米列強の植民地支配に対峙するため、初代住友総理人(後の総理事)広瀬宰平(1828年から1914年)は別子銅山の近代化を決断する。フランス人技師を雇い、その設計書に基づいて日本人だけの力で近代的な坑道を掘り、蒸気巻き上げ機を設置、新居浜には近代製錬所と港湾設備を建設し、その間に索道や鉄道を敷設した。