明治37(1904)年、44歳の若さで三代目総理事となった鈴木馬左也が、就任に際して決意を表した言葉。住友は単なる営利会社ではなく国家の尊い一機関であり、一要素であると宣言し、長期的な展望に立って住友にも国家にも報いる事業を成し遂げたいという思いを示した。この所信表明は、官史から住友へ転身した鈴木が「日本を欧米先進国に匹敵する一等国にしたい」という夢を揺るぎない信念へと変えた、その信条を謳ったものといえる。
明治37(1904)年、44歳の若さで三代目総理事となった鈴木馬左也が、就任に際して決意を表した言葉。住友は単なる営利会社ではなく国家の尊い一機関であり、一要素であると宣言し、長期的な展望に立って住友にも国家にも報いる事業を成し遂げたいという思いを示した。この所信表明は、官史から住友へ転身した鈴木が「日本を欧米先進国に匹敵する一等国にしたい」という夢を揺るぎない信念へと変えた、その信条を謳ったものといえる。
その言葉通り、鈴木は日本の産業と社会の発展を見据え、さまざまな事業を立ち上げ、育成していく。明治44(1911)年に住友電線製造所、翌年に住友伸銅場、さらにその翌年には住友肥料製造所を相次いで設立して諸産業をリード。大正8(1919)年には、大阪の臨海工業地帯の造成のために大阪北港を、別子の電源開発のために土佐吉野川水力電気を創設した。また、日本の技術発展のために外資とも積極的に合弁し、大正7(1918)年に日米板硝子を設立し、大正9(1920)年には日本電気へ資本参加した。
日本を産業・貿易立国にしたいと願い、将来を見据えて、住友の事業と日本の産業発展を目指した鈴木。鈴木の時代に住友が急成長し、日本の近代化がさらに大きく前進したこととは切り離すことができないだろう。鈴木が起こした事業と想いは今も生き続けている。