明治32(1899)年、別子支配人だった伊庭貞剛が離任する際、新居浜の港を発つ時に船上から別子の山々を仰いで詠んだ一句。
明治27(1894)年、大阪本店支配人だった伊庭は新居浜製錬所から排出される亜硫酸ガスの煙害問題と、それに伴う農民暴動、さらに銅山で働く人々の労働問題などに対処するため大阪から単身、別子支配人として赴任した。
煙害問題を解決するため伊庭は、新居浜の20km沖に浮かぶ四阪島へ製錬所を移す計画を断行。同時に、荒廃した山の植林事業に着手した。農民暴動や労働問題については、自ら何度も銅山に足を運び、労働者に声をかけ、対話をすることで信頼関係を取り戻した。気がつけば赴任から5年が経ち、様々な問題にひと区切りをつけて大阪本店へ帰任することとなった。別子赴任時に決死の思いと伝えた親友の品川弥二郎にだけは、その万感の思いを「五ヶ年の跡見返れば雪の山」の句に託して伝えた。
この句には後日談がある。品川は伊庭の上の句に思いを寄せ、自分の下の句を添えて、次のように贈った。
「五ヶ年の跡見返れば雪の山 月と花とは人に譲りて」
伊庭が別子にいた時代は「雪」、つまり苦難の季節であった。やがて訪れる「月」と「花」の季節は後任に譲り、自らは去る。そんな伊庭の無欲で潔い姿勢を賞賛した内容だ。
「難事には自ら進んでこれに当たり、難事が去ればまず自ら退いて後進に道を譲る」。それこそがリーダーのあるべき姿だと、このエピソードは伝えている。