高度成長期から安定期に入った昭和48(1973)年3月31日、隆盛を誇った別子銅山はついに閉鎖する。かつて住友家法に「我一家累代の財本」と謳われ、日本を代表する銅山であった別子が、282年の歴史に幕を下ろした。
閉山決定後、別子事業所を訪れた住友家第16代 吉左衛門友成は坑内に入り、地表下約2,000m、海面下1,000mの最下底坑道まで巡った。その後、山根大山積神社を参拝し、閉山を奉告。山道を歩いて旧別子の遺構を巡り、最後に四阪島の製錬所を訪れて、最後の訪問を締めくくった。
アララギ派の歌人・泉幸吉の号を持ち、斎藤茂吉の高弟でもあった友成は、道すがら何度も立ち止まっては熱心にメモをとり、帰郷後に別子行の旅情を16首の歌に託した。その内の一首がこの句である。
この歌は、長きにわたり受け継がれてきた銅山がついに閉鎖を迎えた感慨を詠んだものである。それと同時に、家長として、母なる山に対する感謝の念、そして、過去の火災や水害で亡くなった人々に対する畏敬の念を込めたものだといえるだろう。