「この銅山を神とし仰ぎ幾代かも掘りつぎて来しことの畏こさ」と同じく、友成が別子銅山閉山の際に詠んだ16首のうちの一首。
銅山の事業開始とともに、周囲の木々は坑木や製錬用の木炭として使われ、みるみるうちに山は荒廃していった。初代総理事・広瀬宰平はこれを憂い、明治元年頃から植林を試みたが、本格的に始まったのは後の二代目総理事・伊庭貞剛が別子支配人に就任した明治20年代後半からだった。新たに山林課(後の住友林業)を設け、植林事業に専念する体制を作った。
ところが、全国各地から樹木を集めて植えてみたものの、標高が高い荒地のためうまく育たない。唯一、根付いたのが信州地方から取り寄せた落葉松だった。
歴代当主の中でも特に頻繁に別子を訪れた友成は、昭和16(1941)年の訪問の際、まだ荒れ果てたままの山々を見て、いたく気に掛けていた。しかしその31年後、昭和47(1972)年秋に訪問した際、鮮やかに紅葉する唐松林を目にしてこの句を読んだのだ。自然を取り戻した山を目の当たりにした感動と、長期にわたる植林事業が成功したことへの感慨が、この歌から読み取ることができる。