「与他産業不相同 無尽蔵中採赤銅 欲問国家経済事 半天鉄路一条通」
(他産業とは同じからず 無尽蔵の赤銅を採る 問はんと欲すは国家経済の事 天を二分する鉄路が一条の道筋となって通ず)

  • # 総理事
標高1000mの絶壁を行く上部鉄道(明治42年撮影)。
写真提供:住友史料館

明治26(1894)年、鉱石や鉱山で働く人々の生活物資を運ぶため、新居浜の平野を走る下部鉄道(惣開~端出場間の約10km)と、海抜1,000mの山岳を走る上部鉄道(石ヶ山丈~角石原間の約5.5km)が開通した。日本初の山岳鉱山鉄道である。

初代総理事・広瀬宰平にとって、開通時の喜びは格別なものだった。「別子銅山の産銅事業は単なる一会社の事業ではない。海抜1,000mから海面下1,000mまで赤銅を掘っていく、そんな遠大かつ、国家社会が豊かになる事業である。この大業を成して今や、鉱山鉄道があの高い中空を走っているじゃないか」と、この漢詩の一字一句に熱い情熱がほとばしる。

背景には鉄道開通の4年前、1889年に広瀬が欧米諸国を巡遊した際のエピソードがある。北米ロッキー山脈のコロラド・セントラル鉱山で、断崖絶壁を縫うように走る山岳鉄道を視察した広瀬は、「我が国の鉱山の状況もまた大同小異」と、別子鉱山での鉄道敷設に自信を持ち、鉄道技師・小川東吾を雇って建設に踏み切った。

この漢詩を詠む以前、欧米視察より前の明治20(1887)年、別子山上で広瀬は「一意殖産興業に身をゆだね、数千万の人々と利を共にせん」と述べている。強い実行力で事業を推し進める広瀬の胸には常に、「自分が儲けるためだけではなく、この国のみんなを豊かにしたい」との強い思いがあったわけだ。

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