歌人や作家として知られる川田順は、昭和11(1936)年まで住友合資会社の理事を務めた。この歌は、昭和30(1955)年、旧友の鷲尾勘解治(わしお かげじ)とともに、別子銅山を訪れた時に詠んだものだ。
ここで川田は、ある光景に引き付けられた。当時、別子銅山開発の大動脈として機能していた第四通洞。そのトンネルの入り口の上部に小さな祠がある。坑内での安全を祈る「大山祇」の神だ。トロッコに乗り坑内へと向かう坑夫たちが、ここを通過する時、皆この祠に目礼し、拝んでいたのだ。
何年、何十年と通いつめた坑内での仕事であっても、毎度厳かな気持ちで挑む。その敬虔な坑夫たちの姿に、安全に職務を全うしようとする姿勢と、「山」に対する畏敬の念を読み取った。この歌には、そんな坑夫たちに対する感謝の気持ちが込められている。