昭和2(1927)年、別子銅山は鉱脈の枯渇によって閉山の危機を迎えた。この問題に直面した当時の別子鉱業所支配人、鷲尾勘解治(わしお かげじ)は昭和4(1929)年、銅山に代わる事業を興すべきと考え、新居浜の都市計画に着手した。長年お世話になった地域社会との共存共栄を図るため、新居浜の工業化を提唱したのだ。
新居浜築港とその埋め立て地に、化学・機械・電力などの工場を誘致し、道路や社宅群を整備。さらに別子鉱山専用鉄道を地方鉄道として一般乗客に開放するなど、インフラ整備に力を注いだ。当時の新居浜町長・白石誉二郎らの賛同と協力を得られたことも、これを後押しした。
しかし、本来は国や地方公共団体が実施すべき公共事業に私企業の住友がどこまで介入すべきかで議論が巻き起こり、さらには鷲尾の独断による新居浜投資が問題となり、昭和8(1933)年には解任されてしまう。
それでもなお都市計画は継続され、結果、新居浜市は「鉱山町」から瀬戸内工業地帯の一翼を担う「工業都市」へと成長した。振り返れば鷲尾には、未来を見据える先見の明があったといえるだろう。