大正期に入り、住友は第一次世界大戦の不景気のあおりを受けていた。鈴木馬左也総理事ら経営陣は、住友家の経営安定と存続のため、新たに金銀鉱業所や林業所など、不動産部門の拡充を推し進めた。
当時の総本店支配人・小倉正恆(後の六代目総理事)は、「どだい金というものは価値変動のないものである。しかも不況の際には金が光ってくる。銅山も結構だが、どうしても金山を持つ必要がある」と、大正6(1917)年、北海道北見国に発見された鴻之舞鉱山を入手。これを受けて住友家十五代家長・吉左衛門友純が詠んだのが、この和歌である。祖業である“別子の銅”に加え、新たな住友家の宝となる“鴻之舞の金”を得たことに対する、率直な喜びが伝わってくる。
とはいえ、開坑後は鉱脈に当たらず、一時は閉山の危機に直面してしまう。そんな時、小倉は「人間というものは、失意のときには進む一方、得意のときには退く一方、これが大事である」と周りを鼓舞し、さらに投資を重ねた。その結果、大正14(1925)年に大鉱脈を発見。日本一の産金高を誇る金山となったのだ。
以降、産出量は年々増え続け、昭和48(1973)年の閉山まで通算56年間で約73tの金を生産。名実ともに「家の宝」として住友を支えた。2017年は鴻之舞鉱山開山100年を迎えた記念の年であった。改めて、金山開発に携わった当時の人々の功績を称えたい。