1922年、四代目総理事就任後の主管者会議で中田錦吉は、「経済社会は勝つか負けるか、生きるか死ぬかの競争が行われているが、そういった社会ばかりだと思わず、住友だけが儲けるのではなく、国家に役立つために力を注ぎ、住友の事業を通じて社会の発達・向上改善に貢献してもらいたい」という言葉を残した。
中田は裁判官出身だけあって、法律家らしい謹厳実直な人格で、数々の困難を厳正に対応し、住友の社内規定を定めていった。
例えば、1906年「飯場(はんば)取締規則」を制定。飯場頭の賃金不当搾取が問題になっていた頃に制度を改め、取締規則を定めることで、一人ひとりの鉱夫に直接賃金を支払い、不良な飯場頭を罷免。近代的な雇用関係を確立させた。
1908年には、四阪島製錬所の煙害問題について奔走。大阪本店理事として愛媛県東予の被災地を自ら視察して、現場の声を聞き、完全解決を目指して力を注ぐ。
また、四代目総理事に就任した3年後の1925年10月1日、「社員55歳、重役60歳」の定年制を初めて設定。この時、中田は62歳であった。あえて自分の年齢よりも若い引退年齢を定め、総理事就任からわずか3年で、見事な引き際を見せた。日本における停年制の採用は、1933年でも336社中140社のみ。江戸時代以来の商家としては、かなり早いといえる。
自らを律し、他人にも厳しく当たった中田であったが、それは冒頭にあるような国家・社会に貢献しようとする思いに裏打ちされたものだった。