“住友中興の元勲”とも称された広瀬宰平は、前号でもお伝えしたが、別子銅山の経営の近代化をはかり続けた。 明治五年には別子銅山用物資と産銅の輸送を目的に、木製の小蒸気船(五四トン)を英国から購入。また採鉱にダイナマイト工法を採用したり、銅製錬にコークスを導入。さらに蒸気機関、削岩機、砕鉱機、巻楊機などの新しい機械を積極的に取り入れた。別子銅山で行った事業開発を紹介したら数限りないものがある。
それらによって明治初年に四二〇トンだった産銅高が、十五年後には一八〇〇トンと四倍余に達し、閉山までの二百八十三年間の出鉱量は推定三千万トン。そこから生み出された銅は六十五万トンと言われる。
だが、広瀬にとって捨てきれない夢があった。
別子銅山には「三角(みすま)の富鉱帯」と呼ばれる大鉱脈がある。別子の歓喜・歓東坑から三百五十メートルほどの下部に、別子の中で価値の高い、良質な銅鉱石が眠ったままになっている。嘉永七年(1854)の大地震で水没した所だが、その「三角」の湧水を排出すれば、良質の銅が採れることを広瀬は知り尽くしていた。
そして、この「三角」の鉱脈を掘り起こしてこそ“別子銅山真の頂点”を極めたことになるというロマンにも似た思いを抱いていた。だからこそ、維新の動乱期に官軍の接収に応じず、住友家の内部で沸き起こった“別子売却”にも猛反対。さらに事業資金が不足した時は、別子銅山だけに通用する「山銀札(やまぎんさつ)」をつくり、山で働く人々の紙幣の代わりに仕立てた。
これらのすべては広瀬が「三角の富鉱帯」とその価値を認識しての“こだわり”と、住友の事業家としてのプライドと意地があったからだろう。