住友の事業精神について、これまでさまざまな視点から取り上げてきたが、その根底にあるのは「自利利他公私一如」という精神を貫いていることである。明治以降、この精神は一層強調されることになり、初代総理事・広瀬宰平はもとより二代総理事・伊庭貞剛、そして歴代の総理事に継承された。
伊庭によれば、「住友の事業は、住友自身を利するとともに、国家を利し、且社会を利する底の事業でなければならぬ」ということ。そして「それが将来有望であり、世に貢献し得べき事業ならば、住友は社会に代わつてこれが経営に任ずるといふ、稟乎たる大市民的精神を逸してはならない」という趣旨だと述べている。
伊庭は在任中に、公害を断つべき製錬所の四阪島移転、植林計画など注目すべき事業に取り組んでいるが、晩年、住友時代を振り返りながら「別子の山が、緑になったことが一番嬉しい」と孫娘にしみじみと語ったという話が、「住友風土記」(佐々木幹郎著)に記されている。伊庭が、心魂を打ち込み情熱を注ぎ込んだのが「植林」であったことが偲ばれる。事業というより、伊庭のロマンだったような気がする。
伊庭は「別子の山を荒蕪するにまかしておくことは、天地の大道にそむくのである」と明治二十七年、別子銅山に登ったとき、荒れ果てた姿を見た伊庭が「旧(もと)のあをあを(青々)とした姿にして、之(これ)を大自然にかへさねばならない」と語っている。
別子銅山は急激な近代化によって山林の乱伐が行われ、製錬所から排出される亜硫酸ガスが煙害となって森林の木々は枯れ、農作物に被害を与えた。その難題に真正面から取り組み解決へ向けて努力したのが伊庭だった。