振り返ると、大阪出身の父理衛門が京都に出て、銅精錬業を起こしたのが十九歳。秀吉の都市改造が始まった時期である。
息子の友以も二歳若い十七歳で新しい大阪という都市の真ん中に飛び込んだ。“蛙の子は蛙”ではないが、“時流”を読み、それに乗りながら事業拡大をはかるという才覚は、幼少期に叩き込まれた英才教育のたまものかもしれない。
政友の涅槃宗の信者は、長崎異国警固役の武士など北九州に広く分布しており、友以にもその関係から海外情報がもたらされた可能性が高く、銅貿易が国内以上に期待できるとして、長崎出島のオランダ商館を通じて、早くから海外との銅取引を始めている。
一方では、政友の影響を受け、仏教への信仰が厚く、嵯峨野・清凉寺本堂の建立や、自筆の紺地金泥の法華経を遺した友以である。