古田俊之助

文・末岡照啓

はじめに

住友人には一つの風格があった。誠実に生きることと廉恥を重んじることである。それが伝統的に継承されて事業精神となった。第二次世界大戦後の最も厳しい時期にこの伝統精神を発揮したのが、七代目総理事古田俊之助(しゅんのすけ)である。古田は住友本社の解散において、赤穂城明け渡しの大石内蔵助の役を務めた住友最後の総理事であった。

生い立ち

明治19年(1886)10月15日、古田俊之助は京都府葛野(かどの)郡衣笠村字等持院(現、京都市北区等持院北町)の寺侍(てらざむらい)井上数馬・エンの五男として生まれた。俊之助には大勢の兄弟(四兄・二姉・一妹)がいたが、ひとり静かに読書に励むという勤勉家であった。平野尋常小学校(現、衣笠小学校)では、卒業時に郡長から優等賞をもらうほど優秀であった。同32年14歳の時、大阪市北区福島に住む古田敬徳の養子となり、府立一中(現、北野高校)に進んだ。養家は船舶の鎖やイカリを製造する大阪製鎖所を経営していた。
古田家の養子となった俊之助は、その後北野中学・六高(岡山)・東京帝大工科と高等教育を受けることができたが、厳格な養父母に仕える苦労が続いた。大学2年の時、敬徳の養女正子と結婚した。それを機に養父は学校を辞めて家業を手伝うよう命じたが、拒否したので一時学費の支給を停止された。

古田俊之助の生家
井上家は、京都市北区等持院で約四〇〇年続く旧家である。俊之助が生まれた当時の面影をそのまま残している。
衣笠の左大文字と衣笠の等持院
衣笠の左大文字と等持院
生家の北方に左大文字があり、俊之助もお盆の送り火を眺めたことであろう。生家北側の等持院(臨済宗天龍寺派)は、足利尊氏の墓所や歴代将軍の木造を祀っている。

汗まみれの学士

明治43年(1910)7月、東京帝大を卒業した古田は、養父母の希望で大阪に就職先を探した。卒業実習が四阪島製錬所だった関係もあり、住友本店に入社し、安治川の住友伸銅場へ配属された。
当時の伸銅場支配人は、後に五代目総理事となる湯川寛吉であった。湯川は現場主義の人で、工学士古田に一職工として鋳造技術の取得を命じた。古田はイギリス人の職長ハザウェーのもとで、坩堝を挟んで真っ赤に焼けた合金を鋳型に注ぎ込む、汗とホコリまみれの作業を3年間不平も言わずに誠実にやり遂げた。この下積みが、エンジニア古田の技術と人格を磨いたのである。

古田俊之助の卒業写真
古田俊之助の卒業写真
住友史料館提供
明治43年、東京帝大工科を卒業した若きエンジニアであった。
四阪島製錬所の卒業実習報告書
四阪島製錬所の卒業実習報告書
明治42年7月、古田は東京帝大在学中に四阪島へ70日余り滞在し、専攻の冶金学を実習した。
その成果がこの300頁に及ぶ報告書である。

責任感の強い技師

住友伸銅場の製管工場(明治43年頃)
住友伸銅場の製管工場(明治43年頃)
住友史料館提供
安治川の製管工場内部、写真左手にフード付のシュワルツ式回転炉があり、その右手にパイプが並んでいる。
住友伸銅所事務所(大正6年 安治川)
住友伸銅所事務所(大正6年 安治川)
住友史料館提供
モダンな洋館であった。

大正3年(1914)1月、海軍の汚職事件「シーメンス事件」が起こったが、住友からは一人の逮捕者も出さなかった。古田は親しい友人に「住友がこれほどの所とは知らなかった。自分は住友の人間であることに、高い誇りと大きな責任を感じる」と語っている。
同7年3月、古田は伸銅場製造課主任(課長)となり、航空機の新素材のジュラルミン研究に没頭していた。同11年11月、安治川工場でジュラルミンの焼き入れ炉が爆発し、死傷者を出した。検事は、その責任の所在を明らかにするため古田を取り調べたが、古田は「いっさいは、製造課長の職にある自分の責任である」と言い切り、上司や部下へ責任を転嫁しなかった。検事は調査の結果、不可抗力として古田を不起訴処分としたが、その理由に「ジュラルミン製造が日本最初の難事業であったこと、古田氏の態度が立派だったこと」などをあげている。

住友伸銅場の大移転

大正14年(1925)2月、古田は住友伸銅場の支配人に昇進したが、妻正子を亡くした。後には幼い二男二女が残され、その二年後には長女も急逝した。当時古田は伸銅場支配人として、大阪卸売市場となる安治川工場の移転指揮を執っていた。鋼管部門を尼崎、非鉄部門を大阪の桜島(現、大阪市此花区島屋町)へ同時に移転する難問を抱え、軍需品の生産は中断を許されなかった。よって移転計画は三年以上の長期計画となり、翌年伸銅場は住友直営から住友伸銅鋼管(株)に改組された。古田は同社の取締役として引き続き指揮を執り、ようやく昭和3年(1928)11月、桜島工場が完成し、天皇行幸の栄えを賜った。
後年、古田は部下に「くやしいことがあったら、命がけの仕事を探しだして、それと取っ組むがよい」と語った。最愛の家族を亡くした傷心は深かった。

住友伸銅場の桜島工場
住友伸銅場の桜島工場(昭和3年)
住友史料館提供
大阪湾に面し、背後に六甲山の山並みが見える。
運河に囲まれた近代的工場であった。
昭和天皇の桜島工場臨幸
昭和天皇の桜島工場臨幸(昭和3年)
住友史料館提供
写真中央の昭和天皇を、先導する古田俊之助。

欧米出張と新規事業

零式艦上戦闘機
零式艦上戦闘機
『人と技術と 住友金属の100年』よりわが国を代表する戦闘機の零戦は、機体に住友金属が開発した超々ジュラルミンと可変ピッチプロペラを採用していた。

昭和3年(1928)8月、古田は住友伸銅鋼管㈱の常務取締役となり、9月に欧米出張を命ぜられた。古田は、カナダのアルキャン社と交渉し、合弁会社設立の腹案を持って5年5月に帰国した。同年8月、小倉正恆が総理事となり、古田の上司となった。翌6年4月、古田は大阪府八尾にアルキャン社と合弁で住友アルミニウム(株)(現、東洋アルミ)を設立し、その加工製造に進出した。
同7年11月、古田のもとへ海軍航空本部の技術部長山本五十六(後の連合艦隊司令長官)が訪れた。山本は古田に、住友は航空機の素材としてジュラルミンを提供しているが、素材ばかりでなく、金属プロペラへの進出を要請した。古田はこれに応じ、翌年2月大阪桜島でプロペラ工場の建設に着手し、ハミルトン式プロペラを製造した。これは海軍の零戦に取り付けられたが、その抜群の機動力はよく知られている。古田と山本の友情は終生変わらず、山本は「帝国海軍の将来のため、材料のジュラルミンの研究と製造によく協力してくれた」と古田に謝意を述べた。

金属トップから総理事へ

古田総理事の就任記念
古田総理事の就任記念(昭和16年)
住友史料館提供
本社屋上での集合写真を拡大。
右隣が国務大臣となった小倉前総理事

昭和8年(1933)1月、古田は住友伸銅鋼管(株)の専務取締役となった。住友では「社長」といえば家長のことで、連系会社の専務が実質の社長であった。同10年9月、伸銅鋼管と製鋼所が合併して住友金属(株)になると、引き続き同社の専務となった。前年9月には満州住友金属が設立され、その専務も兼ね、金属工業全般の指揮を執った。
11年5月、次の総理事と目された川田順が住友を辞職すると、小倉総理事は古田を本社理事に抜擢し、住友全体のことを学ばせた。翌年3月、住友合資会社を株式会社に改組すると、古田は13年1月専務理事となり、16年4月七代目総理事に就任した。初代・広瀬宰平以来、生え抜きの総理事であった。小倉は古田を抜擢した時から「住友の伝統と方針をよく守り、才腕よりも徳望がある」資質を高く評価していた。
この頃、住友銀行の一取引先に過ぎなかった松下幸之助は、住友の総帥となった古田から「将来を期待していますよ」と挨拶され感激し、この経験が「経営者の根本は、お得意さまを大切にする」松下の理念になったという。

戦時の難局

和歌山製鉄所の全景
和歌山製鉄所の全景(戦前 部分)
『人と技術と 住友金属の100年』より
昭和15年、和歌山の臨海部130万坪を買入れ、銑鋼一貫の高炉建設をめざしたが、平炉・電気炉にとどまった。その後、昭和36年に念願の高炉が完成した。
登呂遺跡
登呂遺跡
昭和18年、静岡市高松で、住友金属プロペラ製造所の造成中に発見された。昭和22年から本格的に水田跡が発掘され、弥生時代の稲作文化研究のさきがけとなった。

昭和16年(1941)4月、小倉から総理事を指名された古田は、理事たちの上に君臨する総理事ではなく、まとめ役の理事長を希望したが、許されなかった。そこで古田総理事は、専務理事を廃して、常務理事三名を置き、連系各社に社長制を敷いて有能な人材のまとめ役に徹した。また、総理事就任の挨拶では、「日独伊三国同盟により、わが国の経済は従来の英米依存型から独立独歩型へ転換せざるをえない」と、今後の苦難を予告し、「事業ノ盛衰ハ人ニアリ」と人材の育成を要請した。
同年12月8日わが国は第二次世界大戦に突入し、18年にかけて住友各社は、金属の和歌山製鉄所建設を筆頭に、全国各地で工場の増設に邁進した。ちなみに静岡県の登呂遺跡はこのとき発見されたものである。
18年8月、大蔵省は戦時金融のため、金融機関の合併を命じた。住友と三和銀行との合併はまぬがれたが、住友と大阪海上火災は翌年3月合併して、大阪住友海上火災(株)となった。翌年1月には、住友鉱業・金属・電工・化学・機械・アルミ・通信(NEC)・共同電力・板硝子・化工材工業が軍需会社に指定され、住友の各メーカーは国策会社となった。同年9月、古田総理事は「住友戦時総力会議」を創設し、本社の権限を総力会議に移すことで、政府の統制に対処しようとした。

住友本社の解散

住友本社の解散式
住友本社の解散式(昭和21年 本社屋上にて)
住友史料館提供
前から3列目中央が古田俊之助。

昭和20年(1945)8月15日の敗戦に際し、古田は住友全権を委任された総理事として、十六代家長友成と住友傘下企業35社の約20万人を守らねばならなかった。古田はGHQ(連合国軍総司令部)との交渉で、「住友の全責任は私にあって、他の何人にもない」と説明した。古田は公私の別を考えると、住友の事業と人をさきに、住友家のことは後にせざるを得ないと判断し、翌年1月率先して住友本社を解散した。だが、古田は各社に対し、「住友は営利だけを目的とせず、正しい事業を進めていく、他に類のない伝統がある。住友の各事業は兄弟分であることをあくまでも失わないように精神的に提携してやって頂きたい」と述べた。資本関係がなくなっても、住友の事業精神を遺伝子(DNA)として共有し、守り伝えてほしいと希望したのである。

晩年の古田

古田俊之助遺影
誠実で温厚な人柄であった。二代目総理事伊庭貞剛を敬愛し、伝記『幽翁』を知人に配ったこともある。
古田俊之助の墓所
古田俊之助の墓所
西宮市の満池谷墓地に家族と共に眠る(墓地NO.4区-8-24)。法名は「宝徳院殿大常俊達居士」。

昭和26年(1951)8月、公職追放が解けても、古田は住友に戻らなかった。「若い世代を育てよう、古い者が幅をきかす時でない」が口癖であり、連系の元社長も古田に従った。住友各社では課長クラスが社長となり、若い力で住友の遺伝子を継承し、戦後の発展を築いた。27年6月、古田は吉田内閣の経済最高顧問となり、財界のご意見番を期待されたが、戦中戦後の疲れが出たのか、28年3月23日享年68で急逝した。
十六代家長友成(歌人「泉幸吉」)は、霊前に「敗戦の くるしき時も痩するまで われを扶けて もはら(専)なりにき」の挽歌を供えた。古田は最後の総理事として、誠実にその職責をまっとうしたのである。

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