生い立ち
住友家の総理人(初代総理事)となり、家と事業を分離した広瀬宰平は、文政11(1828)年5月5日、北脇理三郎の次男として近江国野洲郡八夫村(現滋賀県野洲郡中主町)で生まれた。天保5(1834)年、別子銅山勤務の叔父・北脇治右衛門の養子となり、同7(1836)年九歳のとき、叔父に従って別子銅山に登り、その二年後、就業年齢に達してより住友家に奉公した。長いサラリーマン生活の始まりである。
28歳のとき、住友家第10代当主・友視の推挙によって広瀬義右衛門の養子となり、慶応元(1865)年、38歳で別子銅山支配人となった。その間、仕事の合間に独学で漢学を修め、中国の古典によって事業経営の真髄を学んだ。
別子銅山の危機克服
住友家は、長崎からオランダ・中国に輸出する棹銅を生産していた。当時、銅の輸出は幕府の銅座によって管理されていたので、住友の産銅・製銅事業そのものが国策の事業であった。言い換えれば、別子銅山の事業は、国益とは何かを考えさせるものでもあった。
広瀬は銅の流通を通じて、幕府の衰弱・欧米列強の侵略等、日本の置かれた危うい状況を知ることができた。事実、慶応2(1866)年には松山に来航した異国船を見に行き、いよいよわが国も大変だぞと肌身で感じた。
また、広瀬は単なるデスクワークだけで昇進した経営者ではなかった。幼少の頃から別子の山に住み、坑内へもたびたび入りながら、莫大な鉱脈の眠る宝の山であることを現場の人間以上に知悉していた。いわば「別子の申し子」ともいうべき経営者であった。
それゆえ広瀬は、慶応4(1868)年2月、別子銅山の接収に訪れた土佐藩(現在の高知県)の川田小一郎に対して、真っ向から理論闘争を挑んだ。別子銅山は確かに幕府領であるけれども、住友家が発見し、独力で経営してきたものである。しかるに、新政府がこれを没収し、経験のない者に任せるというのであれば、それは国益に反することである、と訴えたのである。
広瀬の国益思想は、同じ「」(そうもうのじん)である川田の心を動かし、両者の出願によって同年三月、新政府から正式に別子銅山の継続経営が許可された。川田は後に三菱の創設に参画し、日本銀行の総裁となった人物であるが、当時はまだ下級役人であった。しかし非凡な才能をもつこの両者の出会いが、その後の住友発展の契機となったのである。