金融難の克服
明治時代、住友の事業は別子鉱山の近代化から始まった。だが当時、その経営は火の車であった。経営を圧迫していたのは、旧大名貸の債権18万両や、政府借用の買請米(鉱夫用飯米)代金8万8千5百両などの多額の借金である。明治2(1869)年、広瀬宰平は、これらの債権回収と借金返済に奔走するとともに、山銀札(やまぎんさつ)という別子山内限りの私札を発行して金融の緩和に努めた。
翌年、広瀬は別子近代化資金を得るため、わが国最初の銀行であった大阪為替会社に出資し、融資の引き出しに成功した。しかし、この会社は政府と大阪の豪商たちが出資した半官半民の会社であり、明治6(1873)年には早くも多額の不良債権を抱えて倒産してしまう。広瀬は、同社の出資者に清算事務を懇願され、明治10(1877)年までにかなりの債権を回収して出資者に分配している。