広瀬宰平 その2

文・末岡照啓

金融難の克服

明治時代、住友の事業は別子鉱山の近代化から始まった。だが当時、その経営は火の車であった。経営を圧迫していたのは、旧大名貸の債権18万両や、政府借用の買請米(鉱夫用飯米)代金8万8千5百両などの多額の借金である。明治2(1869)年、広瀬宰平は、これらの債権回収と借金返済に奔走するとともに、山銀札(やまぎんさつ)という別子山内限りの私札を発行して金融の緩和に努めた。
翌年、広瀬は別子近代化資金を得るため、わが国最初の銀行であった大阪為替会社に出資し、融資の引き出しに成功した。しかし、この会社は政府と大阪の豪商たちが出資した半官半民の会社であり、明治6(1873)年には早くも多額の不良債権を抱えて倒産してしまう。広瀬は、同社の出資者に清算事務を懇願され、明治10(1877)年までにかなりの債権を回収して出資者に分配している。

広瀬宰平と夫人の幸
広瀬宰平と夫人の幸(こう)。
1889年の欧米巡遊の際に撮影したもの。

別子鉱山の近代化へ

広瀬のとった住友の事業方針は、自己資金で着実に事業を進めるというものであった。そのため住友は、三井、三菱や古河、藤田のように他からの融資を得て鉱山を買収することはなく、資金の余力はすべて別子鉱山の近代化へと向けられていく。別子の近代化を実施するにあたり、広瀬は「再三再四熟考シ、以テ其計画ヲ遂ケ、然ル後手ヲ下スベシ、事勿卒ニ渉レハ必弊害ヲ生スル、我言ヲ待サルベシ」と、慎重かつ確実に実施するよう諭している。

山銀札
1869年、財政の逼迫で発行された山銀札。
別子山内に限り通用した。

明治9(1876)年2月24日、広瀬は、フランス人技師・ラロックの「別子鉱山目論見書」を参考に、東延斜坑の開鑿、牛車道の着工などの採鉱・運搬の近代化方針を指示した。ただし、製錬については、ラロックの机上プランを直接実施に移すことが難しかったため、目論見書の翻訳を手がけた塩野門之助の希望を入れ、店員の増田芳蔵とともに約5年間フランスに留学させることにした。
採鉱近代化の主眼となったのは、東延斜坑の開鑿である。幕末期、安政元(1854)年の大地震によって「三角すま」と呼ばれる富鉱帯が水没してしまった。この富鉱帯を再び採掘するためには、アリの巣のように狭く曲がりくねった従来の坑道では不可能で、水抜き坑道と近代的竪坑がどうしても必要であった。

明治元(1868)年、広瀬は、周囲の反対を押し切って小足谷疏水道の開鑿に着手、明治9年(1876)には海抜約1150メートルの東延から、49度の傾斜角で八番坑道レベルの「三角の富鉱帯」(海抜約750メートル)に向けて、横幅6メートル、縦幅2.7メートルの斜坑を掘削し、一番から八番坑道まで8本の横坑との連絡を目指した。斜坑全長526メートルの難工事で、明治28(1895)年の完成まで19年の歳月を要している。

別子鉱山坑内載面図
別子鉱山坑内截面図。1895年のもの。
小足谷疏水道や斜坑、第一通洞などの名前が見える

また、別子鉱山は海抜1300メートルを超える高所にあり、物資輸送は、その経営を左右する重要な生命線であった。江戸時代から、物資の運搬は、中持衆という運搬夫に頼っていたが、広瀬はこの方法に限界を感じ、明治9年、鉱山から峠を越えて新居浜まで約39キロの牛車道建設に着手、13年に開通させた。
明治15(1882)年には、峻険な銅山越えの運搬ルートを回避するため、第一通洞というトンネル工事に着手した。ラロックは、日本人だけの力では不可能だと反対したが、広瀬はダイナマイトを導入、4年後には全長1021メートルをみごと貫通させている。

朝鮮貿易と商社へ

明治初期、わが国の商業・貿易は安政の不平等条約によって、欧米先進国に利益を壟断されていた。住友神戸支店での銅販売を通じて、居留地の外国商館に商権が牛耳られていることを痛感していた広瀬は、つねづね外国商館の高圧的な態度を腹立たしく感じていた。明治8(1875)年1月、彼は神戸支店を通じて外国商館に、銅代金の売り込み手数料を5パーセントから2パーセントに減額すると一方的に通告している。また、これに先立つ明治6(1873)年には、銅以外の貿易にも着手しようと、当時三井物産の前身である先収社が行っていた米輸出にならい、イギリス、オーストラリアへの米輸出をも試みている。
明治10(1877)年、広瀬は商権回復の一環として新たに朝鮮貿易に挑んだ。彼自身は欧米諸国に支店を開設したかったのだが、それだけの実力はまだなかったので、隣国の朝鮮から始めようと考えたのである。明治13(1880)年9月、朝鮮の釜山・元山両支店を視察した広瀬は、朝鮮におけるわが国の商権を高めるためには、過去の歴史にこだわって現地の人々を蔑視することをやめること、また欧米人への卑屈な態度を改めることが重要だと指摘している。だが、明治15(1882)年、朝鮮で内乱が勃発、商権が中国人の手中に帰したため、その翌年には朝鮮貿易から撤退している。

海運の近代化と大阪商船設立

惣開の洋式製錬所
白水丸
写真上は1888年操業を開始した惣開の洋式製錬所。
写真下は広瀬が最初に購入した木造蒸気船「白水丸」。

明治五年(1872)11月、広瀬はイギリス人から中古の木造蒸気船神戸丸(54トン)を購入し、住友の屋号泉屋にちなんで「白水丸」と命名した。その後、明治7(1874)年から14年にかけて回天丸(76トン)、富丸(トン数不明)、安寧丸(340トン)、康安丸(125トン)、九十九丸(79トン)を購入もしくは新造して海運業に進出、四国・山陽・九州・朝鮮航路で活躍した。しかしまもなく、外国汽船や大手の三菱汽船、共同運輸会社(このふたつは合併して日本郵船となる)や、中小の汽船会社が入り乱れてのサービス競争が始まり、さらに明治13(1880)年、老朽化した船体にむち打って航海に出発した白水丸が小豆島沖で汽罐破裂により沈没するという不運に見舞われる。
明治17(1884)年5月1日、外国汽船や三菱汽船と対抗するには、弱小船主の大団結が必要であると考えた広瀬は、西日本の弱小船主55名(現物出資船舶九三隻)を結集して大阪商船会社(現在の商船三井、資本金120万円)を設立する。このとき住友は安寧丸・康安丸を現物出資し、広瀬が初代頭取に就任した。彼は開業式の演説で「その目的たるや大いに運輸の便を開き、産出の昌隆を促し、交易をしていよいよ頻繁ならしめ、国家文明の万一を裨補せん」と述べ、海運業は殖産興業の要であると宣言している。

欧米巡遊と別子鉱山鉄道

別子の上部鉄道
別子の上部鉄道。
日本初の山岳鉱山鉄道であり、広瀬は北米の鉱山鉄道からヒントを得ている。

明治22(1889)年5月、広瀬宰平は還暦祝に欧米諸国を巡遊した。この年の6月、北米ロッキー山脈のコロラドセントラル鉱山で、断崖絶壁を縫うように走る山岳鉄道を見た彼は、別子における鉄道の実用化に自信をもった。その結果、明治26(1894)年には、新居浜の平野部を走る下部鉄道(惣開-端出場間の約10キロ)と、海抜1000メートルの山岳部を走る上部鉄道(石ヶ山丈-角石原間の約5.5キロ)が開通する。これはわが国最初の山岳鉱山鉄道であり、広瀬はその喜びを「与他産業不相同(他産業と相同じからず)、無尽蔵中採赤銅(無尽蔵中赤銅を採る)、欲問国家経済事(問はんと欲す国家経済の事)、半天鉄路一条通(半天鉄路一条通ず)」という漢詩に表した。産銅事業から国家経済を問いたいと意気込む姿は、実業家広瀬の面目躍如たるところであろう。

東の渋沢、西の広瀬

現在の別子山中
現在の別子山中。明治以来の植林によって、豊かな自然がよみがえっている。
撮影 普後 均。

広瀬は、未熟な民間資本を育成するため、財界でも活発に活動した。
明治14(1881)年4月9日、大阪財界の立役者であった五代友厚(旧薩摩藩士)は、政府の重鎮・大隈重信に宛てた書状のなかで「広瀬儀ハ住友の総理代人ニ候(中略)、同人儀は左右の腕と存居候もの」と紹介している。事実広瀬は、五代の女房役として多くの会社設立に関与し、明治11(1878)年大阪商法会議所の副会頭、同12年大阪株式取引所の副頭取、大阪硫酸製造会社の頭取、同一五年関西貿易社の副総監、大阪製銅会社の社長、17年大阪商船の頭取などを歴任している。

明治25(1892)年7月19日、広瀬宰平は、殖産興業につくした功績によって、渋沢栄一(第一銀行頭取)、古河市兵衛(足尾鉱山経営者)、伊達邦茂(北海道開拓者)とともに、民間人として初めて明治勲章(勲四等瑞宝章)を受章した。それまで、勲章は国家のためにつくした者、つまり官吏にしか授けられなかった。ところが、同年賞勲条例が改正され、民間人でも国家のためにつくした者には授与されることとなり、先の四人が第一号となったのである。同年10月19日、関西でただひとりこれを受章した広瀬は、その祝賀会で200名に及ぶ紳士、豪商に対し「今や実業に頼りて勲位に叙せらるゝ途洞開せり、諸君は是より愈よ実業に力を尽くし、以て国家の公益を図り、二等三等は勿論、一等の勲章拝受するの光栄を荷はれんことを」と謝辞を述べ、実業界で働く人人に夢と希望を与えたのであった。

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