はじめに
大正14年(1925)10月1日、住友の四代目総理事中田錦吉(なかだ きんきち)は、62歳で住友総理事を辞職した。11年12月5日の就任からわずか3年に満たなかった。
中田の部下であった川田順は、『住友回想記』のなかで、「彼は碁をうち、シガアをくゆらすだけで、仕事は何もしないように見えたが、大きな改革を一つだけ敢行した。それは、社員五十五歳、重役六十歳の停年制を実施したことであった」と述べている。それまでの住友には停年制がなかった。中田は、前総理事鈴木馬左也の任期が長かったため、59歳で総理事となった。中田は、あえて自らの引退年齢よりも若い停年制を敷き、制定したその当日に辞去した。
生い立ち
元治元年(1864)12月9日、中田錦吉(質直)は秋田藩士の父中田太郎蔵(挙直)とブンの次男として、出羽国秋田郡大館町長倉(現、秋田県大館市長倉町)で生まれた。大館は、秋田藩佐竹氏の支城として栄えた城下町であり、生家は武家屋敷の一角にあった。中田家は大館を代表する名望家であり、父太郎蔵と兄直哉(なおつか)は、第三代と十一代目の大館町長であった。
幕末期の秋田藩は、奥羽越列藩同盟の佐幕派と、勤王派で揺れていた。慶応4年(1868)の戊辰戦争に際し、十二代藩主佐竹義堯(よしたか)は勤王に藩論を統一した。そのため、秋田藩は周囲を敵に囲まれ、大館町は8月21日の戦火により灰燼に帰した。父太郎蔵は秋田藩士として各地を転戦、錦吉は母や兄とともに戦火を逃れ山中に避難した。当時5歳の錦吉は「御一新で官軍が大館までも攻め込むというので、わしらの一族は皆近所の山中に逃げた。どうしたことか、その山中で喫煙をおぼえた。五歳でしたよ。以来今日まで、喫(の)まぬ日は一日もない」と、苦しかった幼少期を、愛煙談義で煙に巻いている。
父太郎蔵は、熱烈な藩主思いで知られる。明治5年(1872)3月、太郎蔵は廃藩置県で十三代藩主義脩(よしなお)が東京へ移住するとき、少しでも藩主のお役に立ちたいと、大館長倉町の藩士35人と相談し、藩主から賜った現米49石(150円)を元手に利殖を重ね、5000円を献納した。錦吉にも、忠義に厚い血が流れていた。