はじめに
近代の住友には、事業の基礎を固め、発展させた七人の総理事がいる。
初代・広瀬宰平、二代・伊庭貞剛、三代・鈴木馬左也、四代・中田錦吉、五代・湯川寛吉、六代・小倉正恆、七代・古田俊之助である。
いずれも住友の事業を国家の発展のため役立てようと、道義に基づく事業経営に邁進したトップリーダーである。
戦前の住友では経営者のトップを総理事と呼んだが、厳密にいうと、初代総理事といわれている広瀬宰平は、本来住友家の総理代人あるいは総理人であって、二代・伊庭貞剛以降の総理事とはそのニュアンスを異にする。
江戸時代の商家では、主人が幼少・病弱・婦人であった場合、その代理として「代人」という制度があったが、総理代人という言葉はない。きわめて近代的な用語といえよう。総理という言葉には、全体を統合し管理すること、すべてを監督し処理するという意味があり、今日においては、内閣総理大臣の略称として使われることが多い。
初代・広瀬宰平の総理代人(総理人)は、代理権の範囲を限定されない代理人の意で、無限の代理権を持っていた。いわば、住友家の当主に代わって事業を監督処理する代理人その人を意味する。
これに対し、二代目以降の総理事は、重役会を構成する理事から選任され、理事たちを総理する総理事であった。総理代人(総理人)も総理事も、当主に代わって事業を統括することに変わりはないが、住友家の総理代人は広瀬に始まり広瀬に終わるのであって、組織としての総理事制が二代・伊庭貞剛から始まるのである。
江戸時代の経営組織
江戸時代初期の寛永年間(1624年~1644年)、住友の初代・政友は僧侶から還俗し、京都で書籍の出版業と薬屋を始めた。
二代・友以は、実父・蘇我理右衛門の銅吹業(銅精錬業)を住友家の家業とし、寛永7(1630)年、京都から大坂(現在の大阪市)に移り、銅貿易も開始した。
友以は自らオランダ商館長と交渉した。なかなかやり手の商人として、商館長日記にもその様子が記されている。三代・友信は寛文年間(1661年~1673年)、全国各地の銅山開発に着手し、採掘から製錬・輸出までの産銅一貫体制を確立するとともに、両替・金融業にも進出、四代・友芳は元禄4(1691)年、別子銅山を開坑し、住友の事業を不動のものとした。
このように、初代から四代目までの当主は、事業に積極的に関わっていたのであるが、五代・友昌以降は、六代・友紀、九代・友聞を除き、事業に積極的にたずさわった形跡は見られない。
なお、当主が経営にあたらないときは、分家の当主や手代のトップがその役目を果たしていた。
近世中期、宝暦10(1760)年以降における住友家の店員組織を見ると、支配人をトップに副支配人、元締、役頭の管理職がおり、その下に一般職の手代、前髪、子供がいた。
そのほか、事業の後見を必要とした場合には、支配人退職者を老分に任命したほか、緊急時には老分を日勤老分として復職させ、その指示を仰いだ。
現在でいうと、日勤老分が常勤顧問、老分が顧問、支配人が社長、副支配人が副社長、元締が部長、役頭が課長に相当するであろう。