鈴木馬左也 その1

文・末岡照啓

はじめに

住友の三代目総理事となる鈴木馬左也(まさや)が、まだ東京大学予備門の学生であった明治11年(1878)、同級生でのちに司法官・貴族院議員となった親友の河村善益は、「鈴木君は上京されると間もなく、大学の予備門に入学されたが、その当時から志が遠大で、何でも国家社会のために事を為さんとする気魄があって、常に当時各地から遊学の途に上って居る、所謂(いわゆる)天下の有志と交わって居られた」と述べている。その精神は、住友に入ってから遺憾なく発揮されるが、その淵源は、さらに生い立ちにまでさかのぼらなければならない。

生家跡に立つ四哲之碑
生家跡に立つ四哲之碑

生い立ち

文久元年(1861)2月24日、鈴木馬左也は高鍋藩家老の父秋月種節(たねよ)と久子の四男として、宮崎県高鍋(現、高鍋町)で生まれた。長男弦太郎は、幕末期勤皇の志士として働き、次兄長平は親戚黒水家の養子となり、郷土の殖産興業に尽力、三兄左都夫(さつお)は外交官としてそれぞれ活躍した。現在、実家跡に四兄弟を讃えた「四哲之碑」が建っている。
明治元年(1868)、激動の明治維新は、当時八歳の馬左也にとっても大変な時期であった。同年2月5日長兄弦太郎は、獄中の感染によってわずか二五歳で病死した。前年、高鍋藩江戸藩邸にかくまった薩摩藩士を救出に赴く途中、幕府に囚われたのが原因であった。6月9日には実母久子が四五歳で急逝、8月26日には母方の大叔父鈴木翔房(たかふさ)が七五歳で没し、その養子衞房(もりふさ)も戊辰の役に加わり、27歳で戦死した。翌2年4月2日、馬左也は鈴木家再興のため、戦死した衞房の養子となり同家を継いだのである。
実父種節は、妻久子を亡くしたときの悲痛を「左都夫十一才、馬左也八才にして、久子まだ抱寝の頃にて、同人臨終迄もお仙、お外へ子供を頼む頼むとの事ばかり、今に耳底に残り」と記している。その父も明治10年6月23日、西南戦争の西郷軍に幽閉され、獄中の病によって六四歳で病没した。種節は、旧高鍋藩士の西郷軍への参戦に対し、逆賊になると反戦論を唱えたためであった。
かくして幼少の馬左也は、大義のために死んでいった父兄親族を目の当たりにしたのである。

高鍋の生家
高鍋の生家

官吏から住友へ

別子開坑200年当時の新居浜
別子開坑200年当時の新居浜(明治23年)
惣開の船着き場から製錬所の煙突を望む
写真提供 住友史料館
宮崎県椎葉の美林
宮崎県椎葉の美林

明治6年(1873)馬左也は、鹿児島県の医学校へ兄左都夫と遊学、9年3月には旧制宮崎中学を卒業した。同年6月、金沢の啓明学校へ入学したが翌年退学して、11年2月から東京大学予備門に学んだ。明治20年7月、二七歳で東京大学を卒業すると内務省に入り、22年5月愛媛県書記官として赴任した。翌年5月の別子開坑200年祭に来賓として新居浜に招かれたが、これが住友との最初の出会いであった。
明治22年8月大阪府書記官として転任すると、10月には大阪住友本店での200年祝賀会に招かれた。席上、馬左也は旧知のこととて挨拶を求められ、「住友家の伊予の銅山経営は、政にはあらざるも、徳を以てせらるるが故に、県民は之に悦服せるなり」と、讃辞を述べた。すでに初代総理人広瀬宰平は、住友の事業精神について「一意殖産興業に身を委ねて、数千万の人々と利益を共に分かち合う」と宣言しており、二代伊庭貞剛も「住友の事業は、住友自身を利すると共に国家を利し、且つ社会を利する底の事業」との方針を執っていた。官界にあった馬左也も、愛媛県や大阪府に在勤中、それを肌身で感じ取っていた。当時、一五代家長友純(ともいと)と総理事伊庭貞剛は、同志を広く世間に求めており、鈴木は将来を託するに足る人物と映った。
明治29年5月、鈴木は住友家の懇請にたいし、「自分は役人で商売のことは何一つ知らない。(中略)徳を先にし利を後にする。徳によって利を得る、それでよろしければお受けする。」と自説を披瀝したが、まさしくこれは住友家の事業方針でもあった。ただちに鈴木の入社は決定し、大阪本店の副支配人となった。馬左也ときに三六歳、働き盛りであった。伯母の杣子は「町人になりたくないと一夜嘆き明かした」というが、もとより馬左也は窮屈な官界に見切りをつけ、住友の事業精神に引かれてやってきたのである。のちに馬左也は、江原万里(住友から東京帝大助教授を経て、キリスト教の宗教家となる)に官界への失望を告げ、「あの時住友に入った故に、自分は幸に自己を枉(ま)げることなくやってこられた」と述懐している。

植林と煙害対策

大塚小郎(林業所主任)宛て馬左也書状(大正9年) 「林業ハ国家の大計ニ干与する」と記している。
大塚小郎(林業所主任)宛て馬左也書状(大正9年)
「林業ハ国家の大計ニ干与する」と記している。
写真提供 住友史料館

明治32年(1899)1月6日、馬左也は別子鉱業所支配人となったが、道義に基づいた経営方針を執った。同年8月別子は未曾有の風水害によって、514人の尊い人命と全施設を喪失した。鈴木はその善後策に陣頭指揮を執ったが、その原因は銅製錬による山林の濫伐であった。馬左也は、伊庭の別子大造林計画を継承し、「鉱山は国土を損する仕事故、国土を護ってゆく仕事をする必要がある。云ひ換ふれば、罪滅ぼしの為めに・・・・・・それには山林事業が最も適当」と述べ、四国の別子山はもとより、全国に植林を敢行する決意を固めた。大正6年(1917)から北は北海道の北見から、南は九州宮崎県の椎葉村まで山林事業を起こし、また朝鮮の国有林にまで植林を敢行した。のちに鈴木は「住友の林業は百年の計をなさんとするもので、私は山林を住友最後の城郭と致したい。」と述べている。

いっぽう、新居浜の煙害問題解決のため、沖合20キロの無人島四阪島(しさかじま)に製錬所を移し、明治38年1月から本格操業を開始したが、煙害はなくなるどころか、風向きの関係で遠く対岸の今治・壬生川(にゅうがわ)付近にまで拡散したのである。明治42年、住友と農民代表の協議会が尾道で開催されたが、席上馬左也は「住友家においても除外方法については熱心に研究し居り(中略)、其の方法発明せらるるに至らば、住友家においては除害設備は少しも厭(いと)う所にあらずして、仮令(たとえ)煙害に対する損害を弁償する額以上をも支出して施設する覚悟である。」と、煙害の根本解決を宣言した。こうして、大正2年9月開設されたのが住友肥料製造所(現、住友化学)であり、亜硫酸ガスから硫酸を製造し、過リン酸や硫安などの肥料を製造した。鈴木が目指したのは農工並進であった。その後も煙害の完全除去の研究が進められ、昭和14年(1939)脱硫中和工場の完成で達成された。

国家百年の事業

住友肥料製造所 新居浜
住友肥料製造所 新居浜(昭和初期)
写真提供 住友史料館
住友伸銅場ケーブル工場(電線製造所の前身)
住友伸銅場ケーブル工場(電線製造所の前身)(明治後期)
写真提供 住友史料館

明治37年(1904)7月、鈴木は四四歳の若さで住友総理事に就任した。就任に当たり、「自分は正義公道を踏んで、皆と国家百年の仕事をなす考えである」と決意表明した。彼にとって住友は単なる営利会社ではなく、実に国家の尊い一機関であり、一要素であった。
そのため明治44年8月、住友電線製造所(現、住友電工)を設立し、わが国最初の電話・電力用高圧ケーブルを製造した。明治45年5月には伸銅場(現、住友金属・軽金属)で継ぎ目なし鋼管の製造に着手、海軍の復水管需要に応えた。大正2年(1913)肥料製造所を設立し、化学工業の先鞭をつけ、同8年には大阪の臨海工業地帯建設のために大阪北港(現、住友商事)を設立した。さらに同年、別子鉱山の電源開発を目的に土佐吉野川水力電気(現、住友共同電力)、および宮崎県の椎葉植林に関係して耳川の水利権を確保した。これらが現在の四国・九州電力発足の遠因となっている。
また、わが国の技術発展のため外資とも積極的に合弁し、大正7年日米板硝子(現、日本板硝子)を設立、同九年日本電気へ資本参加した(昭和7年住友の経営)。20世紀の電気エネルギー時代を見据え、わが国を産業貿易立国にしたいという念願からであった。国家百年の事業、鈴木が起こした事業は現在もなお生き続けている。

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