広瀬宰平は、文政11年(1828)5月近江国野洲郡八夫村(現、滋賀県野洲市)で生まれ、天保7年(1836)9歳のとき別子銅山勤務の叔父に連れられて山に登り、山の中で生活し、独学で勉強して別子銅山支配人になった人物です。彼は非常にグローバルで世界的な視野でものを見ていますが、それは銅の生産を通じて、この銅がどこに送られ、どのような意義を持っているかということをよく知っていたからのようです。ですから最近ようやくわかってきたことですが、明治維新の時、没収や売却の危機にさらされた別子銅山を、彼はなぜ、周りの反対を押し切って、あれほど懸命に守ろうとしたかというと、将来を見ていた。つまり、この銅の事業は、わが国を発展させるのに無くてはならない事業であるということを感じていたからだと思われます。宰平は、別子銅山を預かった土佐藩に対して「何ら空言は一切相成らず、諸事潔白実意を尽くし申さずては、貫通つかまつらず候」と述べたように、岩倉具視などにも正直に自分の思いを伝え、真心で人の心を動かして別子銅山の経営権を守ったのでした。そして、別子銅山の近代化によってその後の発展と工業都市新居浜の基礎を作ったわけです。