第4回

文・末岡照啓

6. 伊庭貞剛の住友入社

しかし、その頃士族の反乱が続き、明治10年(1878)には西南戦争で西郷隆盛が敗死しますが、このころになると、明治維新の自由闊達な気風が消え失せていたのです。貞剛は、信念を曲げ媚びへつらう人が出世をし、自分のように正々堂々とものを言う人間が冷や飯を食わされるような官吏の世界は、どうもおかしいと思ったようです。それで明治12年に辞表を書くわけです。これも展示してありますが、そこには、故郷近江八幡の西宿にいる年老いた両親の面倒を見るために辞めたいと書いています。

住友本家写真
住友本家写真

そして、故郷に帰る挨拶をしに大阪の住友家総理代人であった叔父の広瀬宰平を訪ねたところ、広瀬は、「30歳そこそこで故郷に帰るのはもったいない。実業の世界でもやることはたくさんあり、実業の世界でも国のために役に立てるんだ。」と持論を述べます。私が広瀬宰平の言葉の中で、好きのものがあります。明治20年の別子山上での演説ですが、その中にこうあります。「そもそも諸子が初めこの山に来たるや、決して偶然にあらず、必ず各々目的あり、目的とは何ぞや、即ち勤勉以て国家を益し、節倹以て己が光栄を計ること是なり」つまり、別子銅山に来た人たちに、「あななたちが別子銅山に来たのは、ただ漠然と来たわけではないはずだ。みんな目的意識を持ってきたはずである。それは、別子銅山で働くことで、国家の役に立ち、自分の生活も豊かになるのだから、決して偶然ではない。だから意義をもって働きなさい。」と言うわけです。つまり宰平は、目的意識を植え付ける人です。われわれも、日々漠然と働いていますが、時には「自分は何のために働いているのだろう」ということを、考えてみる必要があるのではないかと思います。ですから、私はこの言葉が大好きです。働くための意義、食べるためだけではないという気概です。宰平は、それと同じことを伊庭貞剛にも言うわけです。「ひとつ別子銅山で働いてみないか。きっと国のために役立つから」と。それで貞剛は承知するわけです。

宗門無尽燈論
宗門無尽燈論

その時貞剛が考えたことは、「君子財を愛す、これを取るに道あり」という言葉です。これは東嶺禅師という禅僧が、『宗門無尽燈論』という本の中で書いているものですが、伊庭は、たまたま何気なしに読んでいたこの本の中で、この言葉を見つけた時に、「これだ。自分はこれでやっていこう。」と思ったそうです。つまり「立派な人物は、財産を愛すものである。企業―働く―ということは、儲けるために働くのであって、恥ずかしいことではない、これは大事なことである。」と思ったわけです。欧米でも同じで、一生懸命働くことが、国を豊かにすることであると思っているわけで、恥ずかしがってはいけない。ただし、「お金の儲け方には道があり、人の道に反してはいけない。正々堂々、理にかなう儲け方をしよう。そして儲かった金は、ちゃんとした使い方をしよう。」そういう思いだったわけです。

7. 国会議員としての伊庭貞剛

明治12年(1879)に入社して、翌年本店支配人となりますが、こういう人を周りはほっておきません。国会議員にしようということで、第一回衆議院議員の選挙に際して、大阪の人たちから推されて、立候補しようとします。しかし、郷里である滋賀の人たちからの要請により、明治23年、滋賀県の第三選挙区から立候補して衆議院議員となります。同期の国会議員に、栃木県出身の田中正造がいます。

橋本峩山
橋本峩山

しかし、伊庭の友人である峩山和尚は、伊庭のことをよく知っていました。橋本峩山といって、京都生まれで、天龍寺を再興した人です。天龍寺は足利尊氏が後醍醐天皇を祀った寺ですが、幕末の禁門の変で、焼かれてしまいます。その後、長州出身の品川弥二郎や、その友人である広瀬宰平、伊庭貞剛らが援助して、天龍寺の再興が行われます。そうした関係で、この三人は、峩山と知り合いでした。峩山は、衆議院議員に当選した伊庭貞剛に手紙を送ります。普通ならば「当選おめでとうございます。国のために尽くしてください。」と書くところ、峩山は「衆議院議員ご当選の由、さだめてご迷惑と存じ候」と書いたわけです。そして「あなたに向かないから、早くおやめなさい。」と言っています。本当の友達だからこそ言えたのだと思いますが、結局、その翌年、国会議員を辞めることになります。辞めた理由は、この時期、住友家の当主が相次いでなくなり(12代友親、13代友忠)、女性だけになってしまったからです。そこで広瀬宰平が、「おまえがいないと事業も成り立たないので、とにかく戻ってこい。」と言うわけです。ですから、親友の品川宛の手紙には、「広瀬が困っているので辞めます。」と書いてあります。

衆議院議員当選証
衆議院議員当選証

実は、伊庭貞剛は、亡くなった当主(友忠)の養育係でした。伊庭は、友忠に帝王学を学ばせるべく、親元から離し、彦根中学から学習院へ行かせます。学習院在学中に別子開坑200年祭があって、新居浜、大阪での祝賀会に出席したのですが、その疲れのためか、直後に病死してしまいます。それで貞剛は、責任を感じたわけです。自分が養育係を務めた当主が早死にしてしまい、住友家には、祖母、母、娘二人の四人の女性しか残っていないわけです。そこで戻ってきた貞剛は、婿探しを始め、徳大寺家から西園寺公望の弟隆麿(後の15代友純‐春翠‐)を婿として迎えます。そのとき、15代さんは「私が家を継いでつぶしたらどうしよう」と心配したそうですが、伊庭は笑って「たかが銅(あかがね)を吹いて儲かった家です。つぶしてもらって結構です」と言ったので、安心して婿になったという逸話が残っています。(続く)

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