続いて伊庭に託された大問題が、明治26年(1893)に起こった別子銅山の問題です。伊庭はその時のことを誰にも明かさなかったし、何にも書いていませんでした。ところが、今から10年ほど前に見つけたのですが、国立国会図書館の憲政資料室にある品川弥二郎文書のなかに、品川弥二郎宛てに来た手紙があるのですが、その中に、明治29年1月5日付けの伊庭貞剛からの手紙があります。その中で伊庭は、愚痴をこぼしています。私も初めて伊庭の愚痴を読んだのですが、みなさんも、意気揚々と別子にやってきて、颯爽と去っていく、かっこいい伊庭貞剛像を持っていると思います。ところが、そこには苦悩する伊庭貞剛がいました。「友達の品川さんだから愚痴を言います。」ということで、ながながと手紙を書いています。これを読んで私は、伊庭貞剛が新居浜で詠んだ「朝かほ(顔)の かき(垣)穂のつゆ(露)の身にしあれハ くさ(草)の庵りそ すミ(住)よかりける」という和歌を思い出しました。わが身を「朝顔の垣穂の露」に見たてた貞剛の、孤立無援の気持ちがわかったような気がいたしました。