ところが、明治28年(1895)12月に出したこの製錬所移転の出願を広瀬が知ってしまいます。この時広瀬宰平は既に引退していますから、口出しをするような立場ではないのですが、彼は「知りて言わざるは不忠なり。」と考えます。彼は死ぬまで忠義に生きた人で、「逆命利君、これを忠という。」を座右の銘にした男ですから、「知ってしまったからには言わなくてはならない。これを黙っていたのでは大きな害になる。」というわけです。こういうことは今もよくあります。保身のために言うべきことを言わないで、事件や事故を起こした会社が少なくありません。知っているのに言わないわけです。その時言っていれば、小さなことで済んだことが、言わなかったばっかりに、会社が無くなったりもするわけです。ですから広瀬は、「知りて言わざるは不忠これより大なるは無し。」ということで、住友の当主に、製錬所を移してはいけない、という意見書(「四阪島移転反対具陳書」)を書きます。