第6回

文・末岡照啓

10. 四阪島移転をめぐる広瀬と伊庭の対立

広瀬宰平の四阪島移転反対具陳書
広瀬宰平の四阪島移転反対具陳書

ところが、明治28年(1895)12月に出したこの製錬所移転の出願を広瀬が知ってしまいます。この時広瀬宰平は既に引退していますから、口出しをするような立場ではないのですが、彼は「知りて言わざるは不忠なり。」と考えます。彼は死ぬまで忠義に生きた人で、「逆命利君、これを忠という。」を座右の銘にした男ですから、「知ってしまったからには言わなくてはならない。これを黙っていたのでは大きな害になる。」というわけです。こういうことは今もよくあります。保身のために言うべきことを言わないで、事件や事故を起こした会社が少なくありません。知っているのに言わないわけです。その時言っていれば、小さなことで済んだことが、言わなかったばっかりに、会社が無くなったりもするわけです。ですから広瀬は、「知りて言わざるは不忠これより大なるは無し。」ということで、住友の当主に、製錬所を移してはいけない、という意見書(「四阪島移転反対具陳書」)を書きます。

この内容は、非常に常識的なものです。まず最初は、自分はなぜ新居浜のまちをつくったかという話から始まります。「地域住民、地域社会があっての企業ではないか。ここでもし製錬所を四阪島に移したならば、新居浜のまちはどうなるのだ。産業が無くなってまちが滅びるじゃないか。そんなことは人の道に反する。」というわけです。次に、冒険は止めろといいます。「島を削り、埋め立てて、工場を造り、家や施設を造っていかなければならない、水も毎日運ばなければならない。製錬所移転には莫大な費用が必要であり、自分が経営者ならば、そんなお金があるのなら、損害賠償にまわす。」というわけです。次にこんな事も言っています。「今の問題は、農民との問題である。農民に事情を説明して土地を買うなり賠償するなりすればいい。今度、島に製錬所を造り、製錬を始めることで、漁民との争いが発生することになれば、農民だけでなく漁民まで敵に回すことになる。漁民との補償問題をどうするのだ。」というわけです。

それから、「公害は亜硫酸ガスだけではないだろう。」と言います。当時、別子銅山の鉱石を運び出すために、東平を開発しなければなりませんでした。第三通洞(トンネル)を掘って、鉱石を運び出し、索道で下ろして、蒸気機関車で海まで持っていって、船で島へ運ぶ。このルートを整備するために、どうしても東平の開発が必要です。しかし、「第三通洞ができると、そこから鉱毒水が流れて、国領川水系に入ってしまうがどうするのか、この鉱毒水問題も大きな問題である。」と指摘し、さらに「聞くところによると、木で水路を造って、流そうとしているようだけれども、木などでは、水害によってすぐに壊れてしまう。そんな柔なものではだめだ。」という具合に、次々と論点を突いていきます。

伊庭貞剛の四阪島移転上申書
伊庭貞剛の四阪島移転上申書

これを受け取った住友吉左衞門(友純)は、困って伊庭貞剛に相談します。伊庭は手紙の中で、「そのまま反論したのでは、起業熱にうかされて島に移そうとしているのではないかと言われます。そんなに軽く見られたくありません。私は、ちゃんと勝算があって移しますので、今から見積書を作ります。」と言って、熔鉱炉の設計書、東平の設計書、運搬経路等々、膨大な見積書と上申書(「四阪島移転上申書」)を作ります。その中で、このまま新居浜に製錬所を置くことはできないので、一つの手として、もう一度山に戻そう、山に製錬所を造るという考えを示します。そしてもう一つの手として、四阪島へ移すという考えを示し、この二つの案の産銅コストを比較します。そして、結果的に四阪島が安いということになります。

山根収銅所(明治38年)
山根収銅所(明治38年)

そして次に、鉱毒水の問題については、広瀬の指摘のように木樋ではだめだということで、煉瓦の水路を東平から延々と造り、山根に収銅所を造ります。今もある山根収銅所は、明治38年、100年前に造った鉱毒処理施設です。やはり人間は、反論がないとダメです。ですから私は、広瀬のやったことは正しかったと思います。やはり、ガチンコの勝負(真剣勝負)をしなければいけません。今の会社の重役会がどうなのかは知りませんが、この100年前にやったような、議論をしなければいけないと思います。

煙害賠償契約書
煙害賠償契約書

一方伊庭も、広瀬の意見に対し、損害賠償をしてはげ山にしても良いという考えは、許されることではない、と辛辣なことを言っています。山を荒らしていたのではいけない、損害賠償では根本的な解決にはならない、という考え方です。また、土地を買えばいいと言うけれどそんなことはできない、それは人の道に反する、というようなことも言っています。そして最後に、「わたしは新居浜のまちを寂れさせるわけではない。」と言っています。なぜならば、新居浜には、機械課、調度課など製錬以外の部署は全部置くのであって、島に連れて行くのは製錬関係の人たちである。また、四阪島に製錬所ができたならば、海運業者も潤うではないかとも言っています。そして、漁業補償については、越智・野間漁業組合のトップである村上紋四郎と契約を結びます。この村上紋四郎は、村上誠一郎代議士の曾祖父になります。伊庭はそのあたりをちゃんとやっています。しかし、それは広瀬の反論があったからできたわけで、そうした正々堂々とした論議が尽くされなければできなかったと思います。

今お話しした広瀬と伊庭の二つの上申書は、今回展示しておりますが、今年発見されました。これも住友家の御当主(15代友純、16代友成)がお手元に持っておられました。今年は、16代御当主の13回忌にあたりますが、四阪島100年という年に、二人の上申書が揃って出てきたということに、強い縁を感じております。

11. 京都議定書の精神に通じる四阪島の煙害賠償契約書

こうした上申書が出て、製錬所は四阪島に移転したわけですが、明治38年(1905)1月に操業を開始すると、意に反して煙害は東予一帯に広がりました。ところが伊庭さんは、「事業というものは、現実問題としていろいろなことがあって、どうしても目先のことに追われてしまうものだけれども、それではだめで、遠い将来へのビジョンを持ってほしい。」と語っています。私流に解釈すると、製錬所を移した、失敗した、ハイ・ダメでしたではいけない。現実問題ばかりに目を奪われないで、移した本当のビジョンを考えて、そのビジョンが達成されるまで、ねばり強く解決策を探らなければならないと言うことになるでしょう。

明治42年、住友では、煙害を認め、損害賠償契約を結びました。普通、損害賠償契約では、お金をいくら払うということが書かれるだけですが、その契約書の中には当時としては画期的なことが謳われております。年間の製錬鉱量を5500万貫(約20万6000トン)にすると決めたわけです。自由主義経済においては、生産は自由です。それを年間20万トンまでしか作っちゃダメだというわけです。いわゆる生産制限というものを決めたわけで、これは企業にとっては致命傷です。これに加えて、麦秋、麦の花が咲く5月から6月の40日間と、稲の花が咲く9月から10月にかけての40日間は、処理鉱量を1日375トンにし、特に大事な開花時期の10日間は、製錬作業をいっさい休止するという契約書でした。

四阪島のペテルゼン式硫酸工場
四阪島のペテルゼン式硫酸工場

私はこれを読んだ時に、今年発効した「京都議定書」だと思いました。これは地球の温暖化を防止するため二酸化炭素の排出量規制を国別に定めたものであり、地球環境を守るためにわれわれの生産活動を制限するというものです。これを始めるために、われわれは知恵を絞っていかなければならないわけですが、そのヒントがこの煙害賠償契約書の中にあると思います。生産制限を突きつけられた側が、そこから抜け出すのにどうしたか、それは亜硫酸ガスを出さないようにすることでした。そのために、どうしたら出なくなるかということを一生懸命に研究します。もちろん損害賠償金も出すわけですが、その額以上のお金をかけて研究をしたわけです。そして考えたのが脱硫装置です。硫酸を取りだし、肥料をつくる。害をなしたものから肥料を作るわけですから、まさに一石二鳥です。それをするためにつくられたのが、現在の住友化学です。ですから、科学技術によって、さまざまなことができると思います。現代の二酸化炭素の問題も、最初は排出量を売買するということで凌ぐのでしょうが、いずれは限界が来ますので、二酸化炭素を封じ込める技術を開発する必要がでてくるのだと思っています。(続く)

最終回へ

PageTop