はじめに
明治30年(1897)3月、住友家五代目総理事湯川寛吉がまだ逓信省(現、総務省)の役人であったとき、万国郵便会議委員として米国に出張した。その帰途、同国のホームステッド製鋼場を見学した感想に「わが日本軍艦の鉄板製造中のものを一見し、初め何となく喜ばしい感じを起したが、たちまち日本に鉄山があるのに、鉄板を外国に注文しなければならないのは、あまりほめたものではない」とある。軍艦の基礎材料さえも満足に製造できないわが国製造業の後進性を、痛切に恥じている。それから8年後、湯川は住友の人となるのである。
生い立ち
慶応4年(明治元、1868)5月24日、湯川寛吉は紀州新宮藩(現和歌山県新宮市)の藩医湯川寛斎・八重の長男(2弟1妹)として、新宮町(現、新宮市千穂1丁目)で生まれた。新宮は熊野三山の一つ熊野速玉神社の門前町であり、また紀州徳川家の付け家老水野氏3万5000石の城下町でもあった。湯川家は祖父寛仲・父寛斎とも新宮藩の御典医であり、伯父麑洞(げいどう)は大塩平八郎の門人として、また「丹鶴叢書」の編纂者としても知られる。
湯川は新宮小学校を4年で卒業し、和歌山中学へ入学、その後中退して東京ドイツ協会学校に在籍した。父寛斎は,嫡男寛吉も医業を継ぐことを望んでいたこともあり、寛吉は明治15年(1882)東京大学予備門に入学し、医科大学へ進む予定であった。ところが、ちょうどその頃ドイツ法科が新設されたので法科大学へ転学した。生前湯川は、そのいきさつを聞かれると、「ナァニ事後承認だよ」と語っていたという。
寛吉は、父の意に反したため送金を絶たれ、苦学したというが、忍耐強くこれを乗り切った。