別子銅山は元禄4年(1691)に開坑されましたが、明治時代に入ると西洋の技術を取入れ急速な近代化が進められ、採掘量は大幅に増加しました。増産対応のため、製錬所は山から浜へ移るとともに増強され、排出される亜硫酸ガスが周辺の農作物に影響を与える煙害が深刻化していきました。その問題を解決するため、製錬所を新居浜から瀬戸内海の沖合20kmにある四阪島に移転するという経営としての決断をしましたが、その意に反し、煙害は東予地域一帯の広範囲に及ぶことになりました。
「日暮別邸」は、四阪島製錬所が操業を開始した翌年の明治39年(1906)に当時の住友家第15代当主友純の命により、住友家の別邸として四阪島に建設されました。その立地は、製錬所を見通せる場所であり、煙害克服に対する当主としての強い関心の現れであったといわれています。その後、煙害をなくすための関係者による様々な対応が重ねられ、昭和14年(1939)に煙害は完全解決されましたが、問題の本質的解決を追求し続けた先人たちの取り組みは住友の事業精神そのものということができます。また、その姿勢は今日の住友グループ各社に連綿と受け継がれ、四阪島が住友の歴史を語る上で欠くことのできない地であるといわれる所以でもあります。
築後110年余りの歳月を経て風雨にさらされた「日暮別邸」は老朽化が進んだことから、住友グループ20社※が協力し、四阪島を遠望できる新居浜市内の星越山に移築、保存し、四阪島にまつわる先人たちが遺した歴史を広く伝えていく「日暮別邸記念館」として整備しました。2018年11月1日から一般公開となり、住友の事業のルーツである銅製錬の歴史なども併せて紹介しています。
洋館部分の地上階のみを対象とした移築工事は三井住友建設と住友林業が担当し、2016年4月から2018年9月までの30か月を要しました。 老朽化していた外壁の下見板、窓などの外部建具、また屋根瓦などは新規部材で、いずれも屋根の形状や窓のデザインなど忠実に再現しました。また、現在の建築基準法で定められた耐震性能や耐久性能に適合させるため、柱や梁は新規部材としました。一方、内装部材は極力再利用するため、建物の部材を一つひとつ取解き、番付表示を行い、可能な限り元の姿を忠実に再現しました。約1万点の部材を取解き、床材・室内建具材・天井材・腰板・一部暖炉の石や煉瓦など、内部部材の約95%を移設復元しました。
移築先の立地は、四阪島と同じような雰囲気を感じられるように坂道の遊歩道を上りながら記念館に通じる作りとなっており、急ぐと息の切れる坂道ですが、島にある時と同様の展望も再現しています。
- ※住友グループ20社(順不同)
- 住友化学株式会社、住友重機械工業株式会社、株式会社三井住友銀行、住友金属鉱山株式会社、住友商事株式会社、三井住友信託銀行株式会社、住友生命保険相互会社、株式会社住友倉庫、住友電気工業株式会社、三井住友海上火災保険株式会社、日本板硝子株式会社、日本電気株式会社、住友不動産株式会社、住友大阪セメント株式会社、三井住友建設株式会社、住友ベークライト株式会社、住友林業株式会社、住友ゴム工業株式会社、大日本住友製薬株式会社、住友共同電力株式会社
- (⼤⽇本住友製薬株式会社は、2022年4⽉に社名を住友ファーマ株式会社に変更しました。)