幕末・明治の動乱期に、政府による接収や住友の経営難による売却から別子銅山をまもり、その開発の近代化を推進した広瀬宰平。彼はまた、わが国の産業の育成にも力を注ぎ、国家の発展に貢献しました。宰平の足跡を通して、新居浜の生い立ち、そして、日本の近代産業の歩みをたどります。
宰平は、1828年(文政11年)、滋賀県の医者の二男として生まれ、9歳のとき叔父に伴われ別子銅山に赴いて以来、その経営維持に奔走し、採鉱・製錬や陸運の近代化を推進するなど、わが国の殖産興業に尽力しました。
宰平が行ったのは、外国人技師の招聘や、作業の機械化、ダイナマイトの活用、日本初の山岳鉄道の導入などで、これにより銅山運営は飛躍的に効率化されました。また、大阪商法会議所、大阪商船の設立にも参画しています。
記念館は、当時の資料や映像などで宰平の業績をたどる展示館と、居宅と客人を招く迎賓館を兼ね備えた旧広瀬邸(国指定重要文化財)の2つから成っており、多方面から日本の近代化に向けての変化を知ることができます。