日本の彫刻史にその名を刻む楠木正成像。それができあがるまでには、東京美術学校を挙げての奮闘と、日本の美術振興に貢献したいとする住友の願いがありました。 (インタビュー=住友史料館副館長:末岡照啓)
日本の彫刻史にその名を刻む楠木正成像。それができあがるまでには、東京美術学校を挙げての奮闘と、日本の美術振興に貢献したいとする住友の願いがありました。 (インタビュー=住友史料館副館長:末岡照啓)
末岡:
楠木正成像製作の指揮をとった高村光雲は、東京藝大の前身である東京美術学校彫刻科の初代教授で、北郷先生の大先輩になりますね。先生の目から見て、楠木正成像は、どのように映りますか。
北郷:
彫刻家としての大先輩であることを差し引いても、光雲は研究の対象としてよく見てきました。彼の作品のなかでも、これは本当に力を注いだ作品でしょうね。ぐっと手綱を引いて立ち止まりかけた様子を形作っていますが、馬の脚に伝わる力や、たてがみや尾に風のたなびきも感じさせ、楠木正成はあごをぐっと引いて馬をいさめていて、緊迫感が漂ってくる。感動すら覚える仕上がりだと思います。
末岡:
あごを引くというのは、やはり最終的に台座の上に置かれることを想定して作っていったということでしょうか
北郷:
もちろんそれはあるでしょう。本体だけで4メートル。台座を含めると頭の位置は8メートルの場所にあります。作り手としてはその高さを意識しないわけにはいきません。実際、高さのある位置からみると、少し首が窮屈に見えます。おそらく首は差し込みになっているのだと思いますが、何度となく刺したり抜いたりして角度を調整していったのではないでしょうか。いい位置に決めたと思いますよ。
末岡:
馬もだいぶ議論があったようです。光雲の残した資料によると、馬は、木曽駒など日本馬のよいところを合体させてイメージを作り上げたとありますね。
北郷:
日本の馬にしては、ちょっと大きいですよね。本来の在来馬であれば、背高がずっと低いですから、ロバにまたがったドン・キホーテのような姿になってしまうはずです。実際、日本の甲冑を付けて馬に飛び乗ろうとしたら、それくらいのほうが都合がいいし、野山を駆け回るのにもちょうどいいサイズです。とはいえ、やはり馬は少し大きいほうが格好がいい(笑)。馬の製作を担当した後藤貞行もそう考えて、近代になって軍馬として輸入されたアラブ種の特徴を踏まえた馬を考えたんですね。私も彫刻家ですから、その気持ちはよくわかります。後藤は陸軍で軍馬の面倒を見ていた人物で、その屍体を引き取って解剖までしていた人物ですから、アラブ種の特徴をつかむのはお手の物だったでしょう。
末岡:
楠木正成自身の姿は、本当に議論百出で、まとめるのも大変だったようですね。
北郷:
私も資料を読みましたが、だいぶ悩んだ様子が伺えます。彫刻家は、対象となるものを、どのように存在させるか、その責任を負う仕事です。歴史上の人物などを扱う場合、表情や身に着けるもの一点一点に至るまで、曖昧なままでは作れませんし、もちろん思いつくままに作るというわけにもいかない。徹底した時代考証や調査を行い、さらにどのような人物であったか限られた資料から思考に思考を重ねてイメージを鍛え上げていかなければなりません。木型を作りあげるだけで3年かかっていますが、その時間は、光雲をはじめとする携わった者たちの議論と苦悩の蓄積といえるでしょうね。
末岡:
哲学に通じるところがありますね。
北郷:
そう、まさに哲学的、本質的な芸術なのです。
末岡:
置かれている場所もまたいいですよね。振り返れば皇居が見えて、背景には木立が配置されています。
北郷:
それも含めて彫刻家の仕事です。馬体は皇居を向きながら、顔は失礼にならないようにとちょっと伏せ気味にしている。伝えられる古事の場面をモチーフにしながら、置かれる場所も踏まえてポーズや表情を決めている。非常に空間を読んだ彫刻で、その点でも優れた作品といえるのではないでしょうか。
末岡:
住友から同時期に東京美術学校に依頼した広瀬宰平の銅像は、昭和18年(1943年)の戦時中に銅が足りないということでオリジナルの像は供出してしまい、平成15年(2003年)、先生に復元をお願いして、大変なご苦労をおかけしました。案を見せていただいたときは、据え付ける高さがどうなのか、台座の色が赤すぎないかなど、気をもんだのですが、出来上がったものを見ると、背景の山並みや建物と絶妙にマッチしていて、本当によいものに仕上げていただきました。
北郷:
そうですね。別子の山を背にして、海の向こうの世界を望むという位置に据えました。喜んでいただけて何よりです。今でこそ、こうした学外からの依頼を受けることは多くなっているのですが、東京藝術大学は長くそうした依頼を受けなかったんです。ところが東京美術学校時代の、この時期は非常に積極的でした。住友さんからは、楠木正成、広瀬宰平を含めて連続で5体の依頼をいただいて、始まったばかりの学校にとっては、ありがたいことだったでしょう。
末岡:
住友としては、伝統的な美術工芸の振興をかかげる東京美術学校の趣旨に大きく賛同していたでしょうからね。広瀬宰平自身が、パリ万博を見学に行ったときに、粗悪な美術・工芸品などの日本の伝統美術品が、並んでいるのを見て、なんとかせねばと感じたと言われています。東京美術学校へ仕事を依頼することで、日本固有の美術を盛り立てることができて、しかも住友の銅を使って献納ができるとなれば、CSR事業としては最上だったでしょう。
北郷:
明治20年(1887年)に、岡倉天心が東京美術学校を作る以前の工部美術学校(明治9年)のときは、まだ「美術」が何たるものかよく理解されてなくて、大工さんたちも入学したいと大勢やってきたんだそうです。東京美術学校になって岡倉天心は、高村光雲らを呼び、さらに住友さんの依頼などの事業があって、教員として優れた人を雇い、教えるほうの体制も整っていった。楠木正成像の本体が完成した明治29年(1896年)頃には、ようやく美術の理解も進み、その本質が芽生えてきたわけです。
末岡:
なるほど、そうすると人と仕事、その両方を集めた岡倉天心の才覚は、やはり並々ならぬものがあったということでしょうね。
末岡:
それにしても楠木正成像の木型はいったいどこにいったのでしょうね。同時期に住友が依頼した広瀬宰平も、松方正義も木型は残っているのに、楠木正成だけは、頭だけしか残っていない。広瀬宰平像は、手だけが欠けていたので、復元に際しては先生に大変なご苦労をおかけしたわけですが、それでも主要部分は残っていました。
北郷:
そうですよね。我々彫刻を研究する者にとっては、原型こそが芸術というところがあります。彫刻をどのように存在させるかという思考が、そこに集約されているわけですからね。ですから、楠木正成像が皇居前に立っているとしても、木型は常にあって欲しい。高さが4メートルもあるものですから、あれば目につかないはずはないと思うのですけどね(笑)。
末岡:
そこで資料をひもときましたら、明治33年(1900年)に住友家が楠木正成像の木型一式を引きとり、列車で大阪まで運び、鰻谷本邸(現 中央区島之内1丁目)の土蔵に収納されていたことがわかりました。それから昭和15年(1940年)に住友本社で別子開坑250年記念の資料展覧会が開催されましたが、そのときは木型頭部だけが展示されています。現在頭部は、私どものところで保管していますが、そのほかの部分は、戦災によるものか、いまもって所在がわかりません。
北郷:
いつか見つかることがあれば、ぜひ東京藝大のアトリエに飾らせてもらいたいと思っているのですが(笑)。
末岡:
もし、発見されることがあれば、また改めてご相談させてください(笑)。本日はありがとうございました。