大阪市立美術館には、住友本社が寄贈した近代日本画のコレクション「住友コレクション」が収蔵されています。戦中戦後の混乱期に20点の絵画が辿った数奇な運命を、同館学芸員の土井久美子氏にお伺いしました。(インタビュー=住友史料館副館長:末岡照啓)
(記事中の人物の所属・肩書は掲載当時のものです)
大阪市立美術館には、住友本社が寄贈した近代日本画のコレクション「住友コレクション」が収蔵されています。戦中戦後の混乱期に20点の絵画が辿った数奇な運命を、同館学芸員の土井久美子氏にお伺いしました。(インタビュー=住友史料館副館長:末岡照啓)
(記事中の人物の所属・肩書は掲載当時のものです)
末岡 :
10年ほど前に、一度、住友コレクションをお借りして、東京の泉屋博古館分館で展覧会を開いたことがありました。この作品群を見るのはそれ以来のことです。
土井 :
あのときのことは、私もよく覚えています。もともと住友コレクションは戦中に開催された「関西邦画展覧会」のために、新たに描かれたものですが、その後、当館に収蔵されていたものの、なかなかそろって展示されることはありませんでした。それが、一斉に並べられるということで「60年ぶりの関西邦画展開催」と注目されました。
末岡 :
改めて展覧会の出品者を見ると、そうそうたる顔ぶれですね。
土井 :
そうですね。上村松園や橋本関雪、山口華楊など、当時の関西日本画壇を代表する画家が名を連ねています。それも大変な力作ぞろいで、各画家の代表作ともいえる作品が多く、年々価値が高まっています。
末岡 :
実際の関西邦画展覧会は、いつの開催でしたか。
土井 :
昭和18年の9月に当館で開催され、続けて大礼記念京都美術館(現・京都市美術館)、東京日本橋・三越でも開催されました。その前年、朝日新聞社が展覧会を企画して、日本画家20名を選定したうえで、住友に後援を依頼したんです。戦争中のことですから、揮毫の依頼はおろか、自由にできる絵の具も和紙も不足し、画家たちにとっては苦しい時期でした。そこに、突然絵の依頼が届き、しかも住友が揮毫料も画材も用意してくれるという話が舞い込んできたわけですから、画家たちの喜びようは、大変なものだったでしょう。
末岡 :
それにしても、こうして改めて鑑賞すると、どの作品にも共通する独特の雰囲気がありますね。
土井 :
そうなんです。静寂感を感じるものが多いんです。たとえば、この西山翠嶂の風景画は、兵庫県の有馬温泉近くの奇勝・蓬莱峡(ほうらいきょう)を描いたものですが、夕月を配して、寂寞とした空気を強調しています。
末岡 :
なるほど。こちらの矢野橋村は、和歌山県の那智の滝ですか。
土井 :
矢野本人が残したメモによると、神武天皇が武運長久を祈願したのがこの滝で、戦争が苛烈を極めつつある折、この滝へ参拝必捷を祈念して制作したとあるのですが、それならもっと違うモチーフを持ってきてもよかったはずなんです。でも、あえてこうした絵を描いてみせた。
土井 :
この北野恒富の『夜桜』もそうです。桜を描くならもっと華やかな絵であってもいいはずなんですが、時局の流れに沿って舞妓が廃止になるという噂を聞いたとかで、惜別の筆が動いたといっています。
末岡 :
世間に漂う厭世的な空気を感じ取っていたのでしょうか。
土井 :
それはあると思います。もともと関西邦画展は、「その頃の日本を、もっともよく表すものを作り、後世に伝える」という意図で企画されたもので、この時代の常で「戦時文化発揚」というサブタイトルがついていました。企画者の口からも、そういう言葉があったに違いない。そうすると軍の活躍を喧伝するプロパガンダ作品に仕上がっていてもおかしくなかったのですが、どの作品も戦意発揚には、ほど遠いものばかりです。
末岡 :
たしかに日露戦争のころは、軍が凱旋する様子を描いた作品などが多く描かれていましたね。そうならなかったのはなぜなんでしょうね。
土井 :
おそらく時期がそうさせたのだと思いますね。描き始めた昭和17年はまだしも、昭和18年になってからは、戦況の悪化は隠しきれないものになっていました。4月には山本五十六元帥が戦死し、5月にはアッツ島玉砕の報も聞こえてきました。それが、彼らの筆に影響を及ぼしたことは間違いないでしょうね。
末岡 :
なるほど。
土井 :
山口華楊などは、もともと黒豹を描いていたというのに、それを捨てて、この柳を描くことにしたそうです。柳といえば、風に吹かれても粘り強く耐え抜く力の象徴です。まさしく「いま」を適確に表現したといえるのではないでしょうか。
末岡 :
もし絵の依頼が半年前にあって、昭和18年の4月に展覧会が開催されていたら、まったく違う空気を感じ取った絵が並んでいたかもしれませんね。
土井 :
そうかもしれません。20年前、末岡さんと初めてお会いしたころの私では、そこまではとても思いが至りませんでしたが、当時の歴史をよく知ったうえで改めて鑑賞すると、それぞれの作品に込められた思いを感じ取ることができて、いっそう味わいが増しますね。
末岡 :
この関西邦画展のコレクションを発掘されたのは土井さんだったんですよね。
土井 :
発掘というほどたいしたことではないのですが(笑)。実際、上村松園の『晩秋』などは、松園の代表作とされ、日本中の美術館から引く手数多でした。ただ、20年ほど前に、収蔵品の台帳を調べていたときに、ふと疑問に思うことがあって。ふつうは作品名に添えて、誰からいつ寄贈されたものといった情報が記されているのですが、数十ページ分詳細が記入されていない部分があったんです。おそらく戦争の混乱で、棚卸しの作業ができなかったんでしょう。この美術館は、昭和17年の11月に旧日本陸軍に接収されました。部分的に開館して関西邦画展こそ開くことはできましたが、本来の機能にはほど遠い環境だったはずです。さらに終戦後の10月から昭和23年まではアメリカ軍に接収されていました。その期間手続きできなかったものが、そのまま50年放っておかれたんだと思います。
末岡 :
住友史料館に資料を調べにおいでになられたのが、その頃でしたね。
土井 :
そう末岡さんが「うちに資料がある」と言われたもので、喜んで伺いました。私、性格的に空白があると気持ちが悪くなるんですよね(笑)。
末岡 :
土井さんは、日の当たらないところに光を当てることを大切にされる方だなあと、そのとき思ったのを覚えています。学芸員としてとても大切なことですね。お会いするきっかけになったのも、日本の美術館や博物館が、日本の近代工芸品をあまり評価していない状況をなんとかしようという集まりでしたし。
土井 :
そうでしたね。たしかにそんなところがあるかもしれません。美術史を丹念に見ていくと、実は表に現われない作品が非常に多いことがわかります。美術館って、やはりできるだけ多くの方に来ていただきたいから、展示もどうしても偏り気味になってしまうんですね。結果として美術史そのものが、どうしてもなんらかの意志のもとに作られていくものになってしまいます。明治以来、学校で習う絵といえば、水彩や油彩で、日本画を習うことはありませんし、焼き物を焼くなんてことも、まずないでしょう。そうすると、ここにおいでなられる方も、「油絵は展示されていますか?」とお尋ねになる方が非常に多い。日ごろすべての作品と接している学芸員として、ちょっと寂しいものがあります。
末岡 :
そういう意味でも、戦中の日本画壇の大家が思いを込めたこの作品群は貴重ですね。
土井 :
おっしゃる通りです。奇跡的なことに、この住友コレクションは戦中戦後の混乱のなかでも散逸せずにここに残りました。関西邦画展のあと、ここの地下に収蔵されたままになってしまいました。同様の企画は、東京やその他の都市でも開かれたはずですが、ほうぼうに買い手がついたようで、こうしたコレクションは存在しません。館が接収され、日増しに敗戦が色濃くなるなかで、一時忘れられていたことが、逆に幸いした形です。
末岡 :
ぜひ、多くの方に見ていただきたいですね。
土井 :
本当に。ふだんは数点しか展示できていないので、もう一度すべて並べて展覧会ができたらと思っています。
末岡 :
貴重なお話を、どうもありがとうございました。