広瀬宰平は、住友家の初代総理事を務めた人物である。正確に言うと、宰平は住友家当主に代わって、経営権を代行した初代の「総理代人」・「総理人」であった。後任の伊庭貞剛はその権限を組織化するため、重役会を構成する理事たちのトップを「総理事」として、住友の全事業を統括する役職とした。今日では、歴代総理事にならって、宰平を初代総理事と通称している。
幼いころより、住友の家業である別子銅山に奉公し、慶応元年(1865年)には、別子銅山の総支配人に昇進、明治五年(1872年)には住友大阪本店の老分(重役)として、近代化に尽力することになる。
これを機に、宰平は大阪の住友本店近くに居を構え、相前後して、現在の新居浜市役所近くの久保田の地に本邸を建築する。別子銅山と、そこから下ろした粗銅を船で大阪へ運ぶ外港であった新居浜口屋(くちや)を結ぶ「登り道」に面し、別子銅山経営者の居宅としてはまたとない立地であった。
工事を手がけたのは新居浜の大工棟梁、真鍋儀兵衛。丈の高い楼閣風の二階建てで、それだけで当時としては極めて斬新だった。加えて書院窓や障子には、当時まだ国内では生産されていなかったガラスを多用。近代和風建築の先駆けともいうべき建物だった。
明治10年(1877年)に無事落成すると、宰平は、母屋二階を「望煙楼(ぼうえんろう)」と名付けた。
「煙」が、別子銅山の製錬所の煙を指していることは言うまでもないだろう。当時の望煙楼は南東に開け、別子銅山を望むことができた。二階建てとしたのはもちろん眺望を重んじてのことだが、ただ風致を愛でるのではなく、鉱山に育てられた恩を忘れることなく、子孫にも伝えていくことを祈念したものだった。