旧広瀬邸 ゆかりの人物編

施主・広瀬宰平の殖産興業にかけた思いと、別子銅山で刻んだ時を振り返ります。

別子の申し子・広瀬宰平

広瀬宰平
写真提供 住友史料館

広瀬宰平ほど、剛腕という言葉が似合う事業家も珍しい。その背景には、別子育ちの宰平にとって、銅山が国家の発展に寄与しうるという強い信念があったからにほかならない。

慶応元年(1865年)、38歳で別子銅山の支配人となった宰平は、その直後から銅山経営を巡る争乱のただ中に立たされる。

明治維新の動乱に伴って、住友家が200年守り抜いてきた別子銅山の稼業権が、一時土佐藩に接収されてしまったのだ。だが、宰平は毅然と新政府に掛け合い、これを取り戻すことに成功した。

さらに、維新のあおりを受けて、経営難に苦しんでいた住友家は、別子銅山売却案を持ち出したが、宰平はこれに強硬に反対し、存続を認めさせている。

その一方で宰平は銅山の近代化を断行する。欧米列強の植民地支配の影が迫るなか、国力増強には銅の増産が不可欠との信念のもと決断したもので、フランス人技師を招いて 計画書を作成させ、採鉱、運搬、製錬の工程すべてにわたって、改革の陣頭指揮をとった。こうした功績が認められ、明治10年(1877年)、宰平は住友家の初代総理人となり、住友家から事業の全権を委任される。

「望煙楼」の由来

旧広瀬邸が天保年間からの広瀬家の地所、現在の新居浜市役所近くの久保田に完成したのもこの年である。落成となった同年6月、宰平はこれを喜び、新築の母屋二階を「望煙楼」と名付け、漢詩をしたためた。

新たに一楼を築き、子孫に遺す
此の楼宜しく鉱山とともに存すべし
望煙、ただに風致を愛でるのみならず
報いんと欲す、積年金石の恩

久保田時代の望煙楼は、新居浜平野から別子銅山を望むように建てられていた。新築の二階からは初夏の新緑にかすむ別子銅山を見ながら、この楼閣が銅山とともに末永く存続すること、またその風景に感動するだけではなく、積年にわたる別子銅山の恩に報いるよう、子孫を諭したのである。

ところが、明治22年に現在地の高台に移築すると、はるか遠くに霞む瀬戸内海と、手前に広がる新居浜平野を見おろしたので、宰平は漢詩の冒頭部分を「高く一楼を築き」に書き直した。海辺の銅製錬所が本格稼働してからは、「望煙」が銅山発展の象徴である製錬所の煙と解釈されるようになった。別子銅山を愛した宰平は、格別な思いでそれを眺めていたに違いない。

住友グループの礎を築く

新居浜地区

それからの宰平の動きはさらに加速する。明治15年には、住友家法を制定して、組織の近代化を図る一方、住友の事業を国家の発展に寄与させようと明治20年代にかけて海運業、製糸業、製鉄業、化学工業、石炭業にも乗り出した。これらの多くは別子銅山運営の延長上に誕生したもので、現在の住友グループの原形をつくるものである。

新居浜には鉱山から派生した産業によって工場が軒を連ね、今日に至るまで瀬戸内海工業地帯の一翼を担っている。今なお残る新居浜地区の産業遺産群は、当時の宰平の獅子奮迅ぶりを雄弁に物語っている。

別子銅山の迎賓館

明治23年(1890年)は、別子開坑200年にあたり、内外の賓客を招いての開坑祭が盛大に開かれることが早くから決まっていた。これに臨んで宰平は邸宅を現在の場所へ移転し、賓客をもてなす迎賓館として増築することとした。 当時売り出し中だった八木甚兵衛(二代目)を登用。 八木や庭師と数十通の書簡をやりとりし、事細かに造作を指示したという。その指示は、たとえばレンガ塀に使うセメントの配合割合を示すほど微に入ったもので宰平が新邸の建築に並々ならぬ思い入れを持っていたことを伺わせる。明治21年に新居は、いったん完成を見たものの、その後も細かい整備は200年祭の直前まで続いた。

そして23年の5月末、住友家当主住友吉左衛門友忠の一行が、新居浜に到着。旧広瀬邸を宿所とし、二百年祭に臨んだ。普段は大阪で執務にあたっていた宰平も、もちろんこれに同行し、ホストとして当主を迎え入れた。このとき、宰平は63歳であった。

宰平が残した広瀬邸

その4年後の明治27年(1894年)、宰平は総理人を辞する。新規に国家的事業として新居浜で開始した製鉄・硫酸事業の経営悪化が引退の引き金となり、新居浜の銅製錬所の亜硫酸ガスが農作物に被害を与える煙害問題もこれに拍車をかけた。 国の殖産興業の一翼を担うために広瀬が発展を急いだことが遠因ではあるが、維新の動乱とそれに伴う住友家の危機を克服できたのは、宰平の卓越した指導力があればこそである。住友家は、宰平の長年の労をいたわり、終生住友分家の上席に列し、総理人の資格をもって礼遇した。

広瀬宰平の人生を彩り、別子銅山と新居浜の発展を見つめた旧広瀬邸は、平成15年、「別子銅山を支えた実業家の先駆的な近代和風住宅」として、国の重要文化財に指定された。

旧広瀬邸 監修者

尼﨑博正
尼﨑博正 Amasaki Hiromasa
京都造形芸術大学教授。農学博士(京都大学)。日本庭園・歴史遺産研究センター所長。1946年生まれ。1968年京都大学農学部卒業。造園の現場を経て、庭園研究の道へ。京都芸術短期大学学長、京都造形芸術大学副学長を歴任。全国で文化財庭園の保存修復に携わるとともに、作庭家としても活躍。1992年日本造園学会賞、2007年京都府文化賞功労賞受賞。著書に『七代目小川治兵衛』(ミネルヴァ書房)『植治の庭─小川治兵衛の世界』(淡交社)、『市中の山居 尼﨑博正作庭集』(淡交社)他、多数。
矢ケ崎善太郎
矢ケ崎善太郎 Yagasaki Zentaro
京都工芸繊維大学准教授。1958年生まれ。1983年京都工芸繊維大学工芸学部建築学科卒業。1985年同大学院工芸科学研究科修了。日本建築史が専門で、数寄空間の史的展開や数寄屋大工と庭師の技術的系譜に詳しい。歴史的建造物の復元にも多数携わる。著書に『茶道学大系六 茶室・露地』(共著/淡交社)、『図説 建築の歴史』(共編著/学芸出版社)、『茶譜』(共編著/思文閣出版)、『珠玉の数寄屋 臥龍山荘』(監修/大洲市)など多数。
末岡 照啓
末岡 照啓 Sueoka Teruaki
住友史料館副館長。1955年長崎県生まれ。1978年國學院大學文学部史学科卒。同年より住友修史室(史料館の前身)に勤務し、主席研究員を経て現在に至る。1997年より新居浜市広瀬歴史記念館名誉館長・特別顧問を兼務。旧広瀬邸・住友活機園・別子銅山産業遺産の文化財報告書等で歴史的意義を明示。住友の歴史に精通し、『住友の歴史』(共著 思文閣出版)『住友別子鉱山史』(共著 住友金属鉱山(株))『近世の環境と開発』(共編著 思文閣出版)の他多数。

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