広瀬宰平ほど、剛腕という言葉が似合う事業家も珍しい。その背景には、別子育ちの宰平にとって、銅山が国家の発展に寄与しうるという強い信念があったからにほかならない。
慶応元年(1865年)、38歳で別子銅山の支配人となった宰平は、その直後から銅山経営を巡る争乱のただ中に立たされる。
明治維新の動乱に伴って、住友家が200年守り抜いてきた別子銅山の稼業権が、一時土佐藩に接収されてしまったのだ。だが、宰平は毅然と新政府に掛け合い、これを取り戻すことに成功した。
さらに、維新のあおりを受けて、経営難に苦しんでいた住友家は、別子銅山売却案を持ち出したが、宰平はこれに強硬に反対し、存続を認めさせている。
その一方で宰平は銅山の近代化を断行する。欧米列強の植民地支配の影が迫るなか、国力増強には銅の増産が不可欠との信念のもと決断したもので、フランス人技師を招いて 計画書を作成させ、採鉱、運搬、製錬の工程すべてにわたって、改革の陣頭指揮をとった。こうした功績が認められ、明治10年(1877年)、宰平は住友家の初代総理人となり、住友家から事業の全権を委任される。