29歳で住友家へ入家していた友純は、明治40年(1907年)、徳大寺家から清風館を買い受ける。そして、ここを兄公望の京都控邸とすることを兄にもちかけた。兄弟にとっては、幼い日の思い出の地。公望は大いに喜んだに違いない。
明治以降、首都が京都から東京に移ってからも、京都に屋敷を構えることは実業家、政治家にとって重要なステータス・シンボルであった。ましてや公家出身で、政治家として当時第一次西園寺内閣を束ねる総理大臣であった公望にとって、それは自身の証といってもよいものだった。
二人は相談して八木甚兵衛に建物の普請を、小川治兵衛に庭の造営を任せることにしたが、公望自身が建材をはじめ、設計や、庭石の配置にも細かく指示を出していたという。そこに友純の文人趣味も加わり、新しい時代の担い手にふさわしい気品と、落ち着きを備えた空間ができあがった。