公家出身で伝統的素養を身につけた住友家15代当主住友友純(春翠)と、幼い頃から西洋の美に親しんだ春翠の長男・寛一。泉屋博古館の傑出したコレクションは二人の対照的な美意識に加え、美術品を広く公開することで文化振興に貢献しようという住友の理想が重なり合って誕生しました。 (インタビュー=住友史料館副館長:末岡照啓)
(記事中の人物の所属・肩書は掲載当時のものです)
公家出身で伝統的素養を身につけた住友家15代当主住友友純(春翠)と、幼い頃から西洋の美に親しんだ春翠の長男・寛一。泉屋博古館の傑出したコレクションは二人の対照的な美意識に加え、美術品を広く公開することで文化振興に貢献しようという住友の理想が重なり合って誕生しました。 (インタビュー=住友史料館副館長:末岡照啓)
(記事中の人物の所属・肩書は掲載当時のものです)
末岡:
泉屋博古館の代名詞といえば、やはり中国古代の青銅器でしょうね。博古館はここからスタートしました。
外山:
そうですね。約600点を収蔵展示していますが、質量ともに極めて優れたコレクションだと、大正時代から高い評価を受けています。大正15年に春翠が亡くなったとき、ロンドンタイムスがそれを報じました。「中国青銅器の収集家として著名な、バロン(男爵)スミトモが死去」と。それくらい有名なコレクションだったわけです。
末岡:
廣川さんは青銅器がご専門ですが、青銅器の魅力はどのようなところにあるとお考えですか。
廣川:
そもそも青銅器は、紀元前17世紀から紀元前11世紀に栄えた殷(商)と、その後の紀元前5世紀頃まで栄えた周の時代に、祭祀へ用いる重要な道具でした。細かな装飾や文字を鋳込んであり、想像もできないくらい手の込んだつくりになっています。当時の鋳造技術の高さを伝えるとともに、その芸術性も高く評価されています。また、そこに書かれている文字が、その当時の出来事を克明に記録していることも多く、中国史を研究する学者にとっては、とても貴重な資料です。
末岡:
なるほど。青銅器を保管展示している施設は数多くありますが、その中で、住友コレクションには、どのような特徴があるのでしょうか。
外山:
近年、中国では土地開発が急ピッチで進んでいることで、遺跡が数多く発見され、青銅器もたくさん発掘されています。ですから量では中国の博物館や美術館に及ばないようになってきています。しかし、それでも当館にあるような質の高い青銅器はなかなか発見されないのです。春翠は実に優れた質のものを集めていたといえるでしょう。
廣川:
世界でここにしかない、あるいは、ごく限られた数しかないというものが多いのも特徴ですね。おそらく対で作られていて、同じ所有者のもとにあったのが、泣き別れになったのだと思います。たとえばこの「虎卣(こゆう)」は、当館のほかにはフランスの美術館にただひとつしかありません。おそらく対で作られていて、同じ所有者のもとにあったのが、泣き別れになったのだと思います。
末岡:
楽器、酒器、食器とジャンルも幅広く、また作られた時代も1,000年以上に渡っていて奥行きもありますね。
廣川:
そうですね。一部の大きな美術館を除けば、これだけ体系的に集めているところはありません。当館にある楽器の「夔神鼓(きじんこ)」や「ひょう氏編鐘(ひょうしへんしょう)」は、きわめて珍しく、世界中から研究者が訪れてくるほどです。
末岡:
終戦直後にGHQが「銅器は無事か」と駆け込んできたことがありましたね。それくらい世界に名の知られたコレクションだった。
外山:
図録『泉屋清賞』の発刊が、大きく影響していたでしょうね。春翠は、蒐集した青銅器をただ保存するだけでなく、広く世に知ってもらおうと、世界で初めてとなる写真付きの青銅器の図録『泉屋清賞』を発刊しました。これを世界中に配布したため、中国青銅器に対する評価が一気に高まりました。その功績は非常に大きいといえるでしょうね。
末岡:
春翠が中国から伝来した青銅器を蒐集していたのは、明治の後期から大正初期にかけてですね。中国の河南省で殷墟(殷王朝の遺跡)の発掘が始まったのが1928年(昭和3年)ですから、春翠が蒐集していた頃は、殷王朝は史記などにしか登場しない伝説の王朝でした。実在するのかどうかもわかっていなかったし、青銅器に対する評価も、今よりずっと低かった。そういった時代に、青銅器を集めようとした春翠の動機は何と考えられますか。
外山:
一つには文人趣味の影響があるでしょうね。中国の宋代にインテリ層の間で広がりを見せた、清らかな自然のなかで語らい、煎茶を手に清談を交わすという文人の世界。彼らは、その清談の場に青銅器を飾って楽しんでいました。日本でも江戸時代の中期に文人趣味の流れを組む煎茶道が広まり、公家の家に育った春翠は、子供の頃から煎茶に親しんでいました。ですから煎茶の場で、青銅器を飾られているのを見て、興味を覚えたということは当然あるでしょう。
末岡:
住友が銅を生業としていたことも、関係していたでしょうね。
外山:
それも当然あったでしょう。しかし、それ以上に、私は春翠の欧米外遊が大きく影響したのではないかと考えています。春翠は明治30年に200日以上に渡って欧米を視察しています。そのとき、欧米の富豪が自分たちのルーツであるギリシャやローマの美術品をコレクションし、熱心に研究している姿を目にしました。そのとき、春翠は自身の役目、住友に入った意義を悟ったのではないでしょうか。東洋文化のルーツである中国文化に敬意を払い、探究するべきだと。
実方:
春翠は、青銅器のほかにも洋画や日本画、茶道具、能衣装などさまざまなものを蒐集しています。それらの多くは、コレクターである春翠の好みが反映されて、清澄で優美なものが多いのですが、こと青銅器に関しては、まんべんなく集めようとしていたことからも、そうした公益性を重視して、文化振興に一役買おうとしていたことが伺えますね。
末岡:
春翠は『泉屋清賞』の序で、「中国青銅器は単に古道具として鑑賞するだけのものではない。青銅器は歴史史料として、また工芸美術の模範として重視すべきである」と述べています。このことで春翠が青銅器をそれまでの煎茶席の道具としてではなく、近代的な考古美術品として見ていたことが判るかと思います。
末岡:
だからこそ春翠は、ただ集めるだけでなく、集めたものを当代一流の研究者の手にゆだねています。東洋史学の泰斗とされる内藤湖南(虎治郎:1866-1934)をはじめ日本の考古学の礎を築いた濱田青陵(耕作:1881-1938)や梅原末治(1893-1983)、樋口隆康(泉屋博古館名誉館長:1919-)など、そうそうたる顔ぶれが研究に携わった。それまで体系的に調査研究した例はありませんから、いってみれば、春翠は中国の古代青銅器学を創始したといえるかもしれませんね。
外山:
そしてその学術的研究を、『泉屋清賞』として世に送り出した。特に大正10年から刊行がはじまった『増訂泉屋清賞』は、別冊で詳細な解説も付して、学術的にも非常に価値の高いものになっています。
末岡:
廣川さんもその系譜に連なるわけですが、最新の研究ではどのようなことがわかってきたのですか。
廣川:
そうですね。最近力を入れているのがX線CTスキャナを使った内部の構造調査です。持ち手や吊り手、あるいは脚が本体にどうやってつけられているのか、X線で透過して観察することで、古代の技術が明らかになってきています。これまでは、たまたま割れた状態で発掘された場合にのみ、構造を確認する機会があったのですが、X線装置にかけることで、運べるものはすべて観察することができます。
末岡:
廣川さんは、エックス線作業主任者の資格までとって内部構造調査や成分分析をされたそうですね。観察した結果はいかがでしたか。
廣川:
はい。驚いたことに、3,000年以上昔の青銅器でも、一体鋳造によるものが非常に多いことがわかりました。ほんの数センチの取っ手をつけるために、わざわざその部分の型まで取って、本体と一緒に作り上げるわけです。古代の人々の技術力、情熱には本当に驚くばかりです。一方、時代を下って、大量に作られるようになってくると、別々にパーツを作って、ねじ込んだり、ハンダ付けをしたりしている例が多い。今後、類型化、年代特定などにも活用できるのではないかと思っています。
末岡:
青銅器とともに博古館は絵画も数多く収蔵しています。実方さんは絵画がご専門ですが、絵画にはどのようなものが多いのですか。
実方:
先ほども少し申し上げましたが、春翠は、日本画や中国絵画については、彼の美意識の赴くままに、柔軟に集めています。公家の出身だけあって、正統派の美意識を継承しているといえるでしょう。前衛的なもの、シュールなものは、まず見当たりません。この「秋野牧牛図」という南宋画も、実にしっとりした感じがあります。茶の湯の席に供することを想定して購入したのでしょう。
末岡:
茶席に飾る軸ということでは、「佐竹本三十六歌仙絵切 源信明」も注目したい作品です。
実方:
そうですね。こちらは日本画で、やはり非常に正統的な歌仙絵です。それでも大胆に空間を配した画面構成や、訴えかけるような目の表情は、歌の余韻を込めたようで、とても趣きがあります。それから、なにより春翠の正統派好みを端的に表すのが、伊藤若冲の「海棠目白図」でしょう。若冲といえば意表をつくような構図や、鮮やかな色彩、激しいデフォルメが特徴なのですが、この作品は、若冲の比較的若いころの作品で、素直に自然を描写する姿勢が残っていたころのもの。生き物に対する暖かな視線が感じられ、ほっとさせられます。
末岡:
一方、中国絵画には明から清時代の個性的な作品がまとまってあることでも、博古館のコレクションは知られていますね。
実方:
はい、八大山人や石濤、いわゆる明の遺民にあたる画人が、世を憂いて、想いの丈をぶつけたような作品を多数所蔵しています。これらを蒐集したのは、春翠の息子の寛一です。寛一は、春翠とは非常に対照的な少年時代を送っています。春翠が公家の家で、日本や中国の古典文化を徹底的に叩き込まれたのに対して、寛一は、洋館に暮らし、洋服を着て、イギリス人家庭教師がつくという、ヨーロッパの貴族のような暮らしをしていたのです。そうした影響から当初、寛一は、キリスト教的宗教画に興味を持っていたのですが、大正時代の岸田劉生との交流がきっかけで、劉生が興味を持っていた東洋美術に惹かれるようになりました。西洋美術を知って、西洋的な美意識の目で改めて東洋を見て非常に新鮮に感じたという言葉が残っています。
末岡:
寛一がこれらの作品を入手したのは昭和のはじめですから、中国画といえば、正統的な南宋画のほうがずっと評価が高かった時代です。そういうなかで、こうした個性的な作品に注目した。早くに目をつけたからこそ、集められたコレクションといえるでしょうね。
実方:
しかもそれを秘蔵するのではなく、広く皆さんに知っていただこうと、知人や画家などに快く見せて、出版物にもしています。
末岡:
春翠が『泉屋清賞』を編んだのを見ていたのでしょうね。自分だけが楽しむのではなく、世の中の人に広く知ってもらおう。これは住友らしいなと思います。二人の優れたコレクターと、それを広く公開するという住友の姿勢があればこそ、博古館の傑出したコレクションが誕生したといえるでしょう。