第15代当主住友吉左衞門友純(春翠)の興味は、近代の絵画や陶芸にも広く及んでいます。それらの蒐集には、日本の近代文化の発展を強く後押ししようとする意図があったことが、数々の史料によって明らかになっています。 (インタビュー=住友史料館 副館長:末岡照啓)
(記事中の人物の所属・肩書は掲載当時のものです)
第15代当主住友吉左衞門友純(春翠)の興味は、近代の絵画や陶芸にも広く及んでいます。それらの蒐集には、日本の近代文化の発展を強く後押ししようとする意図があったことが、数々の史料によって明らかになっています。 (インタビュー=住友史料館 副館長:末岡照啓)
(記事中の人物の所属・肩書は掲載当時のものです)
末岡:
まず、絵画の話からお伺いいたします。春翠は西洋絵画のコレクターとして、大原美術館を設立した大原孫三郎(1880-1943)※1と双璧をなすといわれています。春翠が西洋絵画に興味を持つきっかけとなったのは、やはり実兄の西園寺公望の影響があったのでしょうか?
野地:
大きかったでしょうね。公望は外交官でしたから、当時としては珍しくグローバルな目を持つ人物でした。この兄の影響を受け、海の向こうにあるもうひとつの文化に対して興味を募らせていたことは、容易に想像できます。
末岡:
春翠自身、明治40年にヨーロッパの視察に出かけました。
野地:
そのときの洋行で、クロード・モネ(1840-1926)の「モンソー公園」という作品を購入しています。春翠にとっては初めての西洋絵画です。モンソー公園は、いまもパリの日本大使館の近くにあるのですが、公園沿いに富豪の邸宅を改装した美術館があります。おそらく、彼はそこも訪ねたのだと思いますね。自然のなかに屋敷があり、そのなかに東洋古美術などをコレクションして並べている。それを見て、家のなかに美術品があることの有用性、つまり子弟の教育やおもてなしに美術品が役立つということを認識した。
末岡:
なるほど、須磨別邸 ※2のちょうど逆ですね。
野地:
その通りです。モンソー公園の邸宅美術館はアンリ・チェルヌスキーという富豪が中国や日本を旅行したときに集めた東洋古美術を展示していますが、須磨別邸には西洋絵画を並べた。当時、日本では相当に珍しい建物だったはずです。
末岡:
西洋絵画の蒐集にあたっては、鹿子木孟郎(かのこぎ たけしろう)が果たした役割にも触れなければいけませんね。
野地:
そうですね。鹿子木孟郎はおもしろい人物で、東京で絵の修練を積み、わずかなお金を携えてフランスに留学していたときに、お金が尽きてしまい、つてをたどって住友に支援を頼み込んできた画家です。ちょうどパリ万博(明治33年)のときで、そのとき住友は援助する替わりに、4、5点西洋絵画を購入してきてくれと頼んだのです。すると、「絵を買うよりも私がルーブル美術館で模写してきて差し上げますよ」と言ったそうです。当時の画家にとって模写は、日本では見られない表現を目の当たりにできるうえ、そのテクニックを勉強できて一石二鳥です。スポンサーに対して自らそう持ちかけるのですから、相当肝の据わった人物だったのでしょう。
以後、鹿子木は明治の終わりと大正期に住友の援助を受けて2度フランスに留学しています。
そのとき、サロンで入選した作品や自分が師事していた歴史画の大家ジャン=ポール・ローランスの作品を住友に代わって購入しています。須磨別邸や住友アパートメント(東京)に飾られていたフランスの絵画は、主にそのときに購入したものです。
末岡:
春翠と鹿子木は、相当馬が合っていたようですね。二人が共作した掛軸が博古館に残っていますよ。ねずみと大根を描いたもので、二人で代わる代わる筆をとっています。
野地:
大原孫三郎も、満谷國四郎(みつたに くにしろう)や児島虎次郎らの若い画家をフランスに留学させて絵画を購入させているのですが、集めた作品を見ていると、ちょっと傾向が違うのです。春翠は、須磨別邸に展示すると映えるというか、別邸によく似合う作品を購入させています。鹿子木は、春翠の思いをよく感じ取っていたのでしょう。
※1大原孫三郎
日本の実業家。倉敷紡績(クラボウ)、倉敷絹織(現在のクラレ)などの社長を務め、大原財閥を築き上げる。社会、文化事業にも熱心に取り組み、大原美術館を設立した。
※2須磨別邸
白砂青松で知られる須磨海岸に明治36年(1903)に建てられた住友家別邸。日本で初めての郊外型住宅とされる。欧州視察後、英国流の国際的社交の場・子女教育の場が必要と痛感した春翠が、住友本店臨時建築部技師長 野口孫市に指示し建築させた。残念ながら、第二次世界大戦の戦火により名画コレクション共々焼失し、戦後、別邸跡は神戸市に寄贈され、現在須磨海浜公園となっている。
末岡:
春翠には、画壇の庇護者としての顔もありますね。
野地:
黒田清輝(1866-1924)との関係が象徴的ですね。黒田は、西園寺公望とフランス留学中に親交があった。黒田が明治26年に帰国すると、西園寺は住友の当主となったばかりの春翠に紹介して、支援を頼んでいます。それから春翠は黒田に制作費をたびたび渡して絵を描かせています。いわば、黒田が洋画の画風を確立するのを支援したといえます。
末岡:
関西の画壇に果たした役割も非常に大きいです。
野地:
画塾・関西美術院の立ち上げにも、重要な役割を果たしていますね。
浅井忠(あさい ちゅう 1856-1907)が開いた聖護院洋画研究所という画塾があったのですが、建て増しして関西美術院となるときに多額の支援をしている。その後、関西美術院は昭和期を代表する洋画家安井曾太郎、梅原龍三郎らを輩出していますから、春翠は関西画壇育成の最重要人物といってもいいかもしれません。
末岡:
黒田は東京美術学校の教官ですし、浅井忠は京都高等工芸学校の教官でもありました。いってみれば、東西のエリート画家に目をかけて育てたわけですね。
野地:
作品をコレクションするだけでなく、ヨーロッパの最先端の芸術に目を配り、画家を育てることまでしている。目立たないのですが、こうした草の根的な支援を春翠は続けてきた。それもやはり欧州視察の8ヶ月で思いついたことだったと思います。春翠は欧州滞在の間に、大勢の富豪に会い、彼らが行っている文化保護活動を目の当たりにしています。そこで、春翠は事業で得た収益をどう社会に還元するか、日本の近代化のために何ができるかを考えた。そして、文化の隆盛こそ自らの使命と悟ったのではないでしょうか。
末岡:
洋画だけでなく近代の日本画家の庇護者でもありました。
野地:
木島桜谷(このしま おうこく 1877-1938)が象徴的ですね。大阪天王寺の屋敷を建てる際に、障壁画を彼に依頼した。本来なら大御所に頼むべき仕事なのでしょうが、人気はあるもののまだ新進の桜谷に白羽の矢を立てたわけです。いいと思ったら若い人でも積極的に登用していく。画家たちの励みになったことでしょう。
末岡:
もともと関西には、豪商が文化人を支えるという文化がありましたから、欧米流に富豪が芸術のパトロンとなる可能性があるとすれば、それは関西出身の我々だという思いもあったかもしれませんね。
末岡:
春翠が育てたものといえば、長男の寛一も忘れてはいけません。
野地:
そうです。須磨別邸で育った寛一は、春翠が集めた美しいもの、質の高いものに囲まれて美的感性を養ってきました。春翠が願った西洋の上流社会の教育を施されたのが寛一です。
末岡:
その寛一は、麗子像の岸田劉生(1891-1929)と深い親交がありました。どこか感性が合ったのでしょうね。
野地:
寛一自身、魅力のある人物だったのだろうと思います。また、眼力にも恵まれていたでしょうね。自分がいいと思ったものを、人の意見に左右されず、身の回りに置いていた。
寛一は岸田を通して
有島生馬(ありしま いくま)や武者小路実篤ら白樺派との交流を広げていきます。芸術の世界は非常に狭いですよね。そこにヒューマニズムの種を少し入れると、容易に輪が広がっていく。春翠はそういうこともヨーロッパ視察のときに感じ取っていたはずで、寛一はまさに春翠が願った通りの活動を展開していたわけですね。
末岡:
陶芸家の育成にも力を入れてきました。
森下:
そうですね。近代に活躍した陶芸家の作品を多数収蔵しています。おそらく須磨別邸にゲストを招いたときに使う調度や食器として必要のあるものを、積極的に陶芸家に作らせていたのでしょう。珍しい品が多く、陶芸家とのつながりも広かった様子を伺わせます。
末岡:
板谷波山(いたや はざん)はその代表というところでしょうか。
森下:
はい。自邸に飾る調度品として、非常に気に入って大正6年に波山から直接購入しています。「葆光彩磁珍果文花瓶」は、波山自ら作り出した釉薬を使った作品で、ベールで包むような独特の光彩が特徴です。
末岡:
当時の最先端の化学の知識が反映された作品ですね。
森下:
ええ。実際に波山が調合した釉薬の調合表も残っていて、どのくらいの割合で足していけば、どういう変化が起きるかを熱心に研究していたようです。形状は景徳鎮風で、吉祥のモチーフが数多く描かれている。羊や魚も描かれていますが、これは青銅器から着想を得たと思われます。波山は青銅器の文様もよく研究していて、住友コレクションの青銅器も展覧会で実際に見ています。
末岡:
分館には、茶道具や能装束も多数所蔵されていますね。絵画などは文化振興を目的にしたパブリックな側面もありますが、茶道具や能装束は春翠の趣味がはっきり表れたプライベートなコレクションという趣きがあります。
森下:
そうですね。茶道具では遠州好みといわれる上品な作品を春翠は集めています。きっかけとなったのは、12代当主 住友友親(ともちか)が、明治23年(1890)に手に入れた「六地蔵」という遠州遺愛の小井戸茶碗です。友親は、それを手に入れながらもお茶会で披露することなく他界してしまっています。それを憐れんだ春翠は、友親の30年忌追悼のお茶会で、この茶碗を使っています。このとき春翠は、この六地蔵に見合うものを集めていこうという蒐集の方向性を見つけたのではないかと思うのです。
末岡:
これ(若草)は唐物の茶入れですね。
森下:
そうですね。すっきりした清らかさを感じさせる唐物も多く、春翠の趣味がよく表れていると思います。
末岡:
春翠その人も、まさにその通りの人でしたね。潔癖で、きれい好きで、生き方としても潔白であることを好んだ。そのうえ非常に細やかな気遣いもある方でした。
森下:
能装束も春翠を語るうえでは欠かせません。彼自身、観世流の能を舞って幽玄の世界に身を投じていました。集めた装束をまとっていたかどうかは定かではありませんが、装束だけで約100点、面や鼓、笛なども合わせれば300点はあるでしょうか。
末岡:
春翠は自らの屋敷に能舞台を設えていたほどですから、よほど好きだったのは確かです。でもそれを誰かに見せるということはあまりなかったようで、もっぱら修練のために舞っていたのでしょうね。こうしてみると、本当に古今東西の芸術に本当によく精通し、優れた作品を集めていることがよくわかります。住友の文化、あるいはメセナ活動において、春翠が果たした役割はとてつもなく大きかったことは間違いありませんね。