その初仕事、大阪府立中之島図書館の建築で野口の名は一躍日本中に広まった。古典に乗っ取った神殿建築で、均整の取れたプロポーションに、ディテールもきめ細かな配慮がなされバランスがとれている。日本が洋風建築を学び始めてわずか20年そこそこのこの時期に、ここまで西欧建築を理解していたということからも、その才能がうかがえる。
臨時建築部の創設と同時に入社したのが、野口の帝国大学の後輩である日高胖(ゆたか)で、 野口の片腕となった。日高が手がけた大阪府立中之島図書館の増築(大正11年)は、中央本館の両翼に、まったく同一のデザインで壁面をもつ翼部を構成、規模を拡大したことで求心力が高まり、格調を高めた。野口の設計した中央部とも見事な調和を示しており、息の合ったコンビであったことを感じさせる。
この二人が率いる形で、住友本店臨時建築部、総本店営繕課で14年間住友関連の建物を次々とつくっていく。住友ビルデイングの建築に向けて、徐々にイメージを高めていった時期といえるだろう。
そこへ加わったのが長谷部鋭吉(明治42年入社)だ。長谷部は芸術家肌 の建築家であると同時に、気品、風格に富む人物だった。長谷部が設計した建築は、気高さやいきいきとした生命感があると評されるが、それもその人柄があらわれたものだろう。住友ビルデイングの外観は長谷部のデザインによるものだ。銀行系ビルにはつきものだったオーダーをエントランスだけに絞り、分厚い壁体に整然と窓を穿った特徴的なファサードは、長谷部でなければ生み出せなかったに違いない。
元号が変わった大正4年、野口孫市が 結核で46歳の若さで急逝。その後を継いだのが日高で、翌年、仮本店を建築した関係でのびのびになっていた本店建築は、日高を中心にして、少しずつ動きはじめる。 大正6年、竹腰健造が入社する。イギリスに留学して建築を学んだ経歴の持ち主で、絵画的な才能にも恵まれていた。
長谷部と竹腰の才能を語る逸話が残されている。大正7年、長谷部と竹腰は、仕事の空き時間を生かして、聖徳記念絵画館(東京・明治神宮外苑)の建築コンペがあり、住友営繕から長谷部鋭吉、竹腰健造が応募。一等は逃すものの、それぞれ入選を果たし、住友営繕が優秀な人材を擁していることが全国に知られるようになった。