元禄3年(1690年)、標高1,000mを超える別子山村に発見された露頭を手がかりに、ここに良好な鉱脈があることを確認した住友は、翌年、採掘を開始。全国各所から採鉱や運搬にあたる稼人を募り、急速に採掘体制を整えていく。記録によれば、発見からわずか5年後の1695年には、別子銅山山中に2,700人もの店員と稼人が暮らす鉱山町が形成されていたという。
以来、200年近く江戸時代を通じて、別子銅山は日本、あるいは世界でも有数の銅鉱山としてその名を天下に轟かせてきた。
別子銅山は、現在の工都新居浜と住友グループを生み出した母なる銅山である。
昭和48年(1973年)に閉山した後も、新居浜市には関連遺産が数多く残され、往時を偲ばせている。
愛媛県新居浜市。瀬戸内海工業地域の一角を形成する四国の拠点都市の南方にそそり立つ赤石山系に別子銅山は位置している。 太古の昔、この地がまだ海底にあった時代、海底火山活動によって銅を含んだ鉱床が形成され、地下深くから地層を割って鋭く地表に顔を覗かせ、発見されるのを静かに待っていた。その鉱床の規模は、長さ1,800m、厚さ2.5m、約45度から50度傾いて海抜約1,200mから海面下およそ1,000mにわたって広がるというもので、国内では最大規模の鉱脈といえる。
元禄3年(1690年)、標高1,000mを超える別子山村に発見された露頭を手がかりに、ここに良好な鉱脈があることを確認した住友は、翌年、採掘を開始。全国各所から採鉱や運搬にあたる稼人を募り、急速に採掘体制を整えていく。記録によれば、発見からわずか5年後の1695年には、別子銅山山中に2,700人もの店員と稼人が暮らす鉱山町が形成されていたという。
以来、200年近く江戸時代を通じて、別子銅山は日本、あるいは世界でも有数の銅鉱山としてその名を天下に轟かせてきた。
明治時代に入り、殖産興業を掲げる政府の意を受け、住友は別子銅山の近代化を決断。外国人技師を雇い入れ計画を立案し、明治9年(1876年)から大胆な改革に打って出た。それまで人力で堀り進んでいた採鉱の工程に、火薬・ダイナマイトを導入。「東延斜坑」と呼ばれる鉱石搬出用のシャフトを設けるとともに、蒸気機関を利用した巻き上げ機で効率的な搬出を可能にした。山中から麓までの運搬も、従来は険しい山道を人手によって運ばざるを得なかったが、牛車が通れる道を整備し、さらに明治26年(1893年)には、鉄道も整備した。わずか10数年の間に、別子銅山は急速な近代化を成し遂げたのである。
鉱脈を掘りやすい上層から堀りはじめ、下へしたへと堀り進めていくのが常である。別子銅山もその例にもれず、初期の坑口は標高1,000m以上の山頂付近に作られ、鉱脈が枯れてくると、その下に新たな坑口を設けて掘り進むという過程を繰り返してきた。明治から大正にかけては赤石山系の瀬戸内海側の北斜面に、鉱脈に向けた主要水平坑道の第一通洞・第三通洞・第四通洞を設けていった。通洞口には選鉱場を中心とした鉱山町が形成され、標高が下がった第三・第四通洞では新居浜の町と隣接して存在することになった。
鉱山業から派生した金属製錬業や機械工業、化学工業や電力業・林業などの拠点施設が築かれ、大いに発展を見せていた新居浜。銅山を中心にして、新居浜市は瀬戸内海岸でも有数の都市に成長していたのである。
昭和40年代に入ると、坑道は延びに延び、海面下およそ1,000mまで掘り進んでいた。だが、その分、採掘に要する負担も大きくならざるを得ない。人件費の安い海外からの鉱石輸入も本格化し、さしもの大鉱山も陰りを見せ始める。最終的にはドルショックの影響で、昭和48年(1973年)、別子銅山は終掘する。元禄から昭和まで、全期間の産銅量65万tは、足尾鉱山に次いで国内2番目であった。
いまも別子銅山山頂付近から、新居浜の市街、瀬戸内海に浮かぶ四阪島までのエリアには鉱山施設、製錬工場が保存され、先人たちの血のにじむような努力と、そこでの暮らしを雄弁に物語っている。そして、地下には総延長700kmにも及ぶ坑道が、役目を終えて、静かな眠りについている。
7~8世紀、奈良の大仏をはじめ、ふんだんに銅を使った仏像が各地に見られることからも想像がつくように、日本は古くから銅が豊富に採れていた。海底プレートの火山帯に沈み込みによる火山活動が地盤に変成をもたらし、鉱床を育てたことは疑いないだろう。
古代に盛大であった鉱山業も技術の停滞から15世紀にかけて衰退したが、15世紀末の戦国時代に入ると、各地の大名は民生の安定や軍事力の強化のため、貿易・鉱山などの産業開発に力を注いだ。ちょうどそのころ世界では大航海時代を迎え、ヨーロッパの国々が続々と訪れるようになったのだ。ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスの王室やその勅許会社は、日本の金、銀、銅などを交易品に用いることで、利益をあげていった。
15世紀から17世紀にかけて、日本では金山、銀山が盛んに開発された。一時、銀において日本は世界の産銀量の三分の一を占めるまでになる。マルコ・ポーロのジパング伝説が生まれた背景にもこうした日本の鉱山事情があっただろう。
江戸幕府が開かれるころには、その銀の生産にもかげりが見え始める。それに替わって伸びてきたのが銅だ。17世紀の初頭、銅山の開発が盛んに進められ、足尾銅山(栃木県)をはじめ、常陸(茨城県)、長門(山口県)、周防(山口県)、豊前(福岡県・大分県)などで銅山が開かれ、世界へと輸出されていった。
さらに、1660年代ごろから各地で銅の大増産が始まり、右肩上がりに銅の生産量は増えていった。別子銅山が発見されたのは、この「ゴールドラッシュ」ならぬ「カッパーラッシュ」の最中のことだった。
住友も1660年代ごろに東北地方の鉱山経営に着手し、1680年には岡山県の吉岡銅山、1691年には海を挟んだ別子銅山で開坑し、急ピッチでその開発を進めた。開坑後、7年で産銅量は250万斤(1,500t)に達した。これは当時の日本の産銅高の四分の一に達し、日本の経済に果たした役割は小さくなかったろう。