明治7年(1874年)、住友は銅山経営の近代化を図るべく、フランス人技師、ブルーノ・ルイ・ラロックを雇い入れた。当時の別子銅山は、開坑から180年余りを経ていくつもの問題に直面していた。坑道を深く掘り進めた結果、絶え間なく湧き出る地下水に悩まされ、鉱夫の行く手を阻んだ。旧来の手法では銅の含有率の高い「富鉱」を製錬することはできても、当時、含有率3%程度の「貧鉱」の製錬は難しく、貧鉱はそのまま捨て置かれていた。また、険しい山道を越えて鉱石をふもとへ下ろすには、人力に頼るしかなかった。
ラロックは、約2年をかけてこうした状況をつぶさに分析し、最新の知識と技術を駆使した近代化策を一冊の報告書にまとめた。そして、これをもとに明治9年から旧別子の広範囲にわたって近代的施設の建設が進んだ。その結果、明治元年には、6,000t足らずだった採鉱高は、明治26年には5万tを越え、日本の国力増強にも大きく貢献したのだった。