旧別子では、鉱石を掘り出すだけでなく、そこで選鉱や製錬も行われていた。鉱石を掘り出すのは、もちろん手作業で、軽易な道具を手に、坑道を削り取るように掘り進めていった。これを坑口から運び出し、砕いて銅を含む部分を選別する。この選鉱を担ったのは、女たちだった。
さらに、選鉱された鉱石は硫黄分を抜くため焼き窯で蒸し焼きされて焼鉱となる。焼鉱は、鉄などの不純物を除去するため、土中に掘った吹床(炉)で二工程の製錬が実施され、純度90%の粗銅(荒銅)が完成する。
別子山村は、こうした工程を担う焼窯が300、製錬所の「床屋」が数十もその軒を連ね、一大製錬工場の体裁をなしていた。そのため、山間の狭い場所に稼人とその家族など数千人が暮らす鉱山町が出来上がり、焼竈が立てる煙が、一帯を覆っていた。
製錬された粗銅は、急峻な山道を人手で下ろされ、船で積み出されて、大坂の住友銅吹所で純度99%まで高められた。最終的に、棹銅の形に鋳造され、輸出用として長崎に運ばれたのである。