大阪府立中之島図書館 人物編

中之島図書館誕生の舞台裏や、設計に携わった野口孫市の人となりにスポットを当てます。

野口孫市

住友友純の美学 建築は施主の人格なり──

中之島図書館
明治37年(1904年)竣工当時の中之島図書館。

「建築は施主の人格なり」と言われる。建物の造形や意匠には、施主の思いや趣向が強く反映されることを表した言葉だ。中之島図書館も例外ではない。

中之島図書館の施主は、住友家十五代当主、住友吉左衞門友純である。友純は、明治30年(1897年)4月~11月の欧米諸国への旅で、世界の商工業の繁栄や運営手法を目にして、経営者として成長を遂げる。同時に、美術、建築など古今の文化に対する知識を深め、欧米の上流社会の生活、儀礼への理解も増した。分けても、欧米の富豪が文化事業や社会事業に惜しげもなく資材を投じて奉仕活動をしているかに感銘を受け、それが中之島図書館建設の決断へとつながった。

明治33年(1900年)、友純は、大阪府に府民のために有益な施設として活用されるよう図書館を建設して建物一式並びに図書基金として金5万円を寄付することを申し出た。いわばメセナ(文化擁護)事業の先駆である。この案は早速府議会に報告され、議員達は申し出に感動して、満場一致で議決されたという。

興味深いのは、図書館建設の資金を提供するのではなく、図書館そのものを建築して寄贈したことだ。おそらくは、商都大阪に文化的施設を建てるのだという使命感に加え、欧米視察で“本物”を目の当たりにしてきたことで、ぜひとも自らが施主となって、その美意識を注ごうとしたのであろう。

中之島図書館の工事期間はその規模の割に長い三か年を費やし、建築費も最初の予定の15万円を大きく超えて、総額20万円となった。それを許したのは、基礎から細部にいたるまで友純の強いこだわりがあったからに違いない。

技師長・野口孫市 西洋建築の文法

野口孫市

中之島図書館を語るうえで、もう一人忘れてはならない人物がいる。住友本店臨時建築部技師長の野口孫市である。

野口について語る前に、まず当時の建築界の状況に触れておこう。19世紀半ば、怒濤のごとく打ち寄せた西洋文化を、日本人は懸命に学習し、自分たちのものとしてきた。まずは模倣し、時には図面から作り上げ、試行錯誤しながら作り上げていった。その過程が困難に満ちていたことは想像に難くない。建築もこの例にもれず、明治初期、ベランダやアーチ、ドームなどの洋風モチーフを用いた「擬洋風建築」と呼ばれる建築がまず登場した。大工の棟梁や技術官僚らが頭を悩ませながら造ったこれらの建築は、実物を見ないまま施工されたものも少なくなく、知識の欠落部分を創意で補おうとした結果、特異な形態を持ったものも珍しくない。

明治4年(1871年)、明治政府は国家事業として技術者を育成することを期して近代工学の教育機関「工学寮(後の東京大学工学部の前身のひとつ)」を設置する。造家(建築)科も設けられ、ここから西洋建築の体系的な学習が始まった。だが、初期の卒業生らは、膨大な西洋の建築様式を消化して再生するのが精一杯で、背景にある文化や理念にまでなかなか思いが至らなかった。総合的に理解するには、卒業生らが指導者となって、その意匠や構造を言語化して後進に伝える過程を何度となく繰り返す必要があったのだ。

後代の建築史家らが、日本人建築家が西洋建築の“文法”を適確に把握しはじめたと評価するのは、世紀をまたいで1900年代に入ってから。工学寮の設置から実に30年を待たなければならなかった。野口孫市が活躍した時代は、まさにその20世紀初頭。西洋建築を理解した最初の世代といえよう。

施主と設計者の蜜月

1階ホール
竣工当時の1階ホール。

野口は明治27年(1894年)、東京帝国大学工科大学造家学科を優等の成績で卒業し、大学院では耐震家屋について研究した。東京駅舎や日銀本店の設計で知られ巨匠といわれた辰野金吾らからも期待され、同29年(1896年)、逓信省に入り、技師として活躍していたところへ住友家から声がかかった。

住友に嘱託として勤務すると、野口はすぐに欧米の建築事情の視察旅行に出かける。この洋行が、自身も欧米を視察して“本物”の建築に触れた家長友純の指示によるものではあることは疑いない。そして、古今の建築物を巡る旅は、この俊才を大いに刺激したことだろう。ロンドンを中心に欧米を約一年にわたって視察し帰国。早々に野口に課せられた大きな課題が中之島図書館の建築だった。

大阪で初めてとなる大規模な図書館、そして住友が手がける初めての本格的な洋風建築の建設を巡って、友純と野口は何夜も語り合ったに違いない。二人の間にはアイデアスケッチや洋書が山をなし、それぞれが見てきた欧米の建築を飽きることなく評し合い、図書館のイメージをつくっていったのだろう。

また、友純の美学ともいうべき和と洋の融合、そして住友が培ってきた遠く将来を見据え、困難を乗り越えて物事に取り組むといった理念も、そこで語られたはずだ。それこそまさに、西洋建築を日本に根付かせるために不可欠な過程だった。

美術文化に鋭い感性を持つ施主と、非凡な才能と西洋建築の精到な理解を持った設計者。二人が出会い、蜜月ともいえる関係を築けたからこそ、中之島図書館は、近代建築におけるひとつの到達点と評されるに至ったとはいえないだろうか。

住友家所蔵の貴書を託す

歌集・仮名草子や洋書
住友家、そして友純の生家である徳大寺家から寄贈された、歌集・仮名草子や洋書。

友純は図書館の建築だけでなく、多数の書籍を中之島図書館に寄付している。建築に先立って、図書の購入基金として5万円を寄付。開館前には輸入した百科事典類を約80冊、開館後は「住友文庫」として自然科学系の洋書約2万冊を寄贈している。大阪の人々に広く世界に目を開いてほしいと願ってのことだろう。

開館時には、住友家に18世紀から所蔵されてきた洋書も寄贈した。『オランダ記念貨幣史』『万国近代史』『フランス百科全書』などは、当時のオランダ商館長から住友家当主へ献呈されたものとされ、それぞれ一冊だけでも文化財として評価しうるものだ。

絵巻物のほか、友純の生家である徳大寺家に所蔵されていた室町末期以来の歌集、家人たちが読んでいただろうと思われる仮名草子や浮世草子、またその時代時代の外国事情や世相の動きをまとめた蔵書も多い。室町末期から江戸・幕末にわたる日本の近世を生きた、商人の世界と公家の世界をつぶさに披瀝してくれるもので、近世を研究する学識者らにとって貴重な資料となっている。

府民が守り伝える大阪の財産

イルミネーションアート
クリスマスを彩る、正面玄関のイルミネーションアート。
建館寄付記

友純が願った通り、中之島図書館は戦災をも耐え抜き、竣工から100年を超えても威風堂々と立ち続けている。1970年代、中之島周辺で進んだ都市開発にともなって図書館の改築計画が持ち上がったが、府民らの熱心な保存要望を受け、昭和49年(1974年)、本館と両翼の増築部分は国の重要文化財に指定された。いまも年間利用者は30万人を超え、府民の「知の宝物庫」として、その役目を果たしている。友純の思いと野口ら技師の技術、そして大阪の人々の努力がなし得た大阪の財産といえるだろう。

神殿をモチーフとした外観は、人々の創造力を掻き立てるのだろうか、毎年クリスマスの時期には、正面玄関をスクリーンに見立てた光のイルミネーションアートが繰り広げられ、行き交う人々の目を楽しませている。またポーチコを檜舞台に見立てて、能のライブも定期的に開催されている。東西の文化がこんな形で合流するとは、友純も想像していなかっただろう。

二階中央ホールに掲げられた銅板「建館寄付記」で、友純はこう語りかけている。

「我が大阪は関西の雄府にして、人口百万、財豊かに物殷(さか)んにして、諸学競い興る。而かるに図書館の設独り焉(これ)を闕(か)く。是に於いて、 府庁、建館の議有り。某、自から揣(はか)らず、図書館一宇曁び図書財本若干資を献じ、もって微力を効さんことを請う。(―中略―)斯の館に入る者は、仰いで国家の盛運を思い、俯して我が府の富源を察し、之を培い、之を養い、諸学理に参じ、益ます功を将来に収めよ(―後略―)」

大阪府立中之島図書館編 監修者

坂本 勝比古
坂本 勝比古 Sakamoto Katsuhiko
神戸芸術工科大学名誉教授。工学博士。1926年中国の青島生まれ。神戸工業専門学校(現在の神戸大学工学部)卒業。神戸市役所に勤務。その後、千葉大学工学部教授を経て、現在に至る。市役所在勤中から神戸居留地と異人館群を研究し、異人館博士として知られる。阪神大震災による歴史的文化遺産の被害状況調査と復旧にも尽力。著書に『日本の建築―明治・大正・昭和 商都のデザイン』(三省堂)、『明治の異人館』(朝日新聞社)など。1996年第22回明治村賞を受賞。
末岡 照啓
末岡 照啓 Sueoka Teruaki
住友史料館副館長。1955年長崎県生まれ。1978年國學院大學文学部史学科卒。同年より住友修史室(史料館の前身)に勤務し、主席研究員を経て現在に至る。1997年より新居浜市広瀬歴史記念館名誉館長・特別顧問を兼務。旧広瀬邸・住友活機園・別子銅山産業遺産の文化財報告書等で歴史的意義を明示。住友の歴史に精通し、『住友の歴史』(共著 思文閣出版)『住友別子鉱山史』(共著 住友金属鉱山(株))『近世の環境と開発』(共編著 思文閣出版)の他多数。

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