住友活機園 洋館編

アールヌーヴォー調の意匠が映える洋館の見どころを紹介します。

実用の住まいとして設計された洋館

洋館
洋館の食堂から庭園を望む

洋館

活機園は、住友二代目総理事伊庭貞剛(いば・ていごう)が、総理事を辞した後の居宅として、明治37年(1904年)に完成した邸宅である。伽藍山、瀬田川を望む広大な敷地に洋館と和館、そして和室が並び立ち、それぞれの南面に配された芝生の洋風庭園、紅葉や杉木立が連なる和風庭園が、見事に呼応し、趣きある景観をつくっている。

明治以降、和館と洋館を併設する邸宅は各地に建てられたが、その多くは、洋館は客をもてなすところ、和館は日常の暮らしを営むところという棲み分けがされている。西洋から移入した洋風建築は、社交にこそ力を発揮するが、くつろいで過ごすには勝手が異なるところもあったのだろう。

しかし、明治も下ってくると、日本人は次第に洋風の空間での暮らし方を自分のものとして消化しはじめる。建築家も、西洋建築の技法と背景にある考え方を十分に咀嚼し、次第に和洋を折衷した日本独特の洋館が現れ始める。活機園の洋館も、そうした和のテイストが折り込まれた日本的な洋館だ。

洋館の設計は、住友営繕の技師長・野口孫市。ヨーロッパ外遊で学んだ新しい造形をここでもふんだんに取り入れつつ、日本建築との融合を積極的に試みている。

アールヌーヴォーの優美な意匠

外観は木造二階建てで、柱や梁の木材軸組構造を外部に露出させ、その間を漆喰やレンガで充填するハーフティンバー様式。左右対称を崩し凹凸のある壁面はピクチャレスクの影響も見られる。庭面に面してテラスが設けられ、瀟洒ではあるが、質素な印象で、鋭角の三角形の屋根と相まって、どことなくロッジを連想させる。

東面に回ると、サワラのウロコ壁が目に留まる。当初は防腐剤として柿渋を塗装していたという。現在に至るも欠損は1枚もなく、十分な手入れが施されてきた様子がうかがえる。

二階のバルコニーの手すりは卍崩し。寺社仏閣に見られる手法で、日本の伝統的モチーフが取り入れられている。

一階には、ホールを囲んで食堂と書斎があり、いずれにも暖炉が設けられている。食堂の暖炉は、上部に漆喰に植物柄を生かしたアールヌーヴォー調の文様が描かれ、華やか雰囲気を醸し出している。ドアにはめられたアイアンワークスにもツタの意匠が施され、背景の芝生の緑と重なり、目を楽しませている。

書斎のドアを開けると五角形の張り出し窓が目を引く。幾何学図形を生かした窓の意匠、ドアのカギ穴を覆うカバーに施された細かな装飾、桑の木を丁寧に削り込んだ暖炉など、見るものを飽きさせない。

意匠
意匠
現在でも欠損は一枚もない、東面のウロコ壁。
意匠

随所に凝らされた和の技法

階段ホールは一転穏やかな印象だ。床や柱、階段は塗装を施さず、木肌の美しさを生かしている。洋風建築は本来、塗装なしで仕上げられることはない。野口はここにあえて日本建築のエッセンスを取り込んだのだ。ガス灯やアカンサスのレリーフなど、西洋の意匠が用いられてはいるが、白木の印象が勝り、日本的空間をつくりあげられている。

このホールは和館へとつながる場所でもある。和館から洋館へ移動してきたときに、違和感がないのは、この空間が世界観を橋渡ししているからかもしれない。

瀬田川と琵琶湖を遠望する二階の客間は、さらに実験的だ。床はケヤキの網代、天井は吹き寄せの格天井で、和の風情が匂い立つようである。床の寄せ木細工は、一枚一枚丹念に貼り合わせており、寸分の狂いもない。日本建築の技法を尽くして、なおかつ洋間として完結させており、今日まで続く和洋折衷型日本住宅の原点を見るようである。

客間からドア一枚隔てた部屋は貞剛の寝室である。南面の窓近くにベッドを置き、目覚めから朝食までの時間を、ベッドのなかで朝焼けの雲を眺めたり、鳥のさえずりを聞いて過ごしたと伝えられる。

二階でもっとも日当りのよい場所には、サンルームが設けられている。木製のソファは、当時としては珍しいリクライニング式で、一脚は貞剛が、やや小さいもう一脚は、夫人が使い、庭と遠く山並みを見渡しながら、お茶を飲む時間を好んだという。

洋館
サンルーム
2階の日当たりのよいサンルーム。

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