住友活機園 庭編

周囲の自然と一体となった活機園の庭。その侘びの世界をご紹介します。

住友活機園の庭

「山も庭もうごき入るや夏座敷」

松尾芭蕉が、奥の細道の旅中、那須の門人秋鴉を訪ねたときの吟だ。屋敷に来てみると裏山も庭も青々として、まるで座敷に溢れ込んでくるようだの意。活機園の座敷に座り外に目をやると、芭蕉がこの句で描いた「侘び」の世界を思い起こさずにはいられない。

伊庭貞剛が、大津石山の山林を購入したのは明治20年、伊庭はそのときまだ40代だった。まだ働き盛りだったときから、伊庭はここを終の住処と決めて、休みを見つけては松や杉、紅葉の苗木を植えていたという。引退のときには、それら十分に育っていることを念頭に置いた、遠大な計画だった。

それから100年が経過し、座敷前の紅葉は見事な枝振りを誇り、杉の木立から落ちる木漏れ日がビロードのように地面を覆った苔を青く輝かせている。夏ともなれば、緑の勢いはいよいよ増し、まさに座敷に溢れ込んでくるかのようだ。

一方、庭園らしい築山、池は、見当たらない。総門から屋敷へと続くアプローチには池を配し、石も置かれているが、和館の座敷からそれらを目にすることはできず、人工物が目に留まることは、ほとんどない。

そのかわり大きく開けた南面には、紅葉と杉木立の間に、粛然と伽藍山が佇んでいる。文字通り、近景と合わせて一幅の絵とする借景のお手本のような景観だ。

庭
庭

自然との調和を形にした館

活機園の敷地は元来1万5,000坪程あった。その後、名神高速・新幹線などの用地に提供し、現在は約六分の一の2,500坪程となっている。おそらく、伊庭が暮らしていた当時、周辺には目立つ建物もなく、和館の前の庭は、そのまま周囲の景観に溶け込み、伽藍山まで連なっていた。

総門から連なるうねったアプローチも、茶室へとつながる小径も、まるで自然のなかにさまよいこんだような風情を感じさせ、座敷を目にしながら、伽藍山を彷徨している気分にさせられる。

もちろん、自然のままというわけではなく、細かく手がかけられており、低木はていねいに刈り込まれ、苔庭のなかにも、人の通るところは、白砂利が鮮やかに目を打つ。その小径を歩きながら、晩年の伊庭は、思いもかけない生き物との出会いや、名も知らぬ花が咲くのを楽しんでいたに違いない。

洋館からは北に琵琶湖、南東に瀬田川を望む。庭に池を作らなかったのも、この大きな水を控えて、これ以上池を作る必要はないという考えがあったからという。その言の通り、穏やかな湖面となだらかな流れは、活機園にこれ以上ないアクセントを与えている。

伊庭は、「建築は、四囲の景観、自然と調和するものでなければならない」と常々語っていた。その思想をもとに設計された活機園は、伽藍山に加えて、琵琶湖、瀬田川をも、「庭」に組み入れ、大いに目を楽しませてくれている。

庭
庭
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