京都編

住友の事業精神の源「文殊院旨意書」

住友の事業精神の源「文殊院旨意書」

住友家初代政友が晩年、商人の心得を説いた文殊院旨意書は、冒頭文のほか五ヶ条にわたって家業の永続や発展のほか、人間の努力や誠実さを求める内容にもなっている。以下は旨意書の文言です。

商事は不及言候へ共万事情ニ可被入候
一、何ニ而もつねのそうばよりやすき物 持来候共根本をしらぬものニ候ハゝ少もかい申間敷候左様之物ハ盗物と可心得候

一、何たるものにも一やのやともかし申まし又あミかさにてもあつかましく候
一、人のくちあいせらるましく候
一、かけあきないせらるましく候
一、人何やうの事申候共気ミしかくことはあらく申ましく候何様重而具ニ可申候巳上

冒頭文の「商事は不及言候へ共万事情ニ可被入候」は、「何事も粗略にせず、すべてのことについて心を込めて丁寧慎重に励むように」ということである。この言葉は、現在でも住友の事業精神として受け継がれている。

住友史料館副館長 末岡照啓氏
住友史料館副館長 末岡照啓氏

五ヶ条では、普段の相場より安いものが持ち込まれても、出所がわからないものは盗品と心得よ。誰であろうと宿を貸したり物を預かったりするな、などの禁止条項が並ぶ。そして最後の項で、他人がどのような(ひどい)こと言っても短気になって言い争うようなことはせずに、繰り返し詳しく説明するように、と人と接する場合の心がけも記されている。

住友史料館副館長の末岡照啓氏は、旨意書についてこう語った。
「政友は当時の不穏な社会情勢を的確に把握したうえで、堅実な商売と法令の遵守ということを諭しています。さすが住友初代の事業精神には説得力があります。現代にも十分通じるのではないでしょうか。」

住友政友の宗教哲学と「富士屋」開業

住友政友の木像
住友政友の木像

商人の心得を説いた「文殊院旨意書」を残し、現在もその精神が受け継がれている住友初代・政友についての資料、史話は少ない。
ただ、京都東山の麓(左京区鹿ヶ谷)の住友有芳園の中にある歴史展示館には、住友四百年にわたる貴重な歴史や事業精神を示す資料の多くが展示されている。
その一隅に政友を偲ぶことのできる小さな木像がある。数珠を手に、悟りを開いた宗教哲学者の穏やかな表情があった。非公開のため、一般の見学者の目に触れることはないが、住友家・初代の印象を伝える唯一の史といえる。
政友は天正十三年(一五八五年)、越前の国・丸岡(現在の福井県坂井郡丸岡町)で生まれた。くしくも豊臣秀吉が関白になった年でもあり、世はまだ戦乱の匂いが漂っていた。丸岡には戦国時代、柴田勝家が建てた丸岡城があり、住友家の家系譜をさかのぼれば武士の家柄であった、と末岡照啓史料館副館長。説明はさらに続く。

政友は十二歳の時、弟とともに母親に連れられ京都に出た。戦乱の世はこりごりだったのかもしれない。住友家はここで武家を捨て、政友を僧侶にさせようと両親は決意、父親を残して丸岡を後にした。
京都に入った政友は、新興の「涅槃宗」(ねはんしゅう)の門を叩き、開祖・及意上人空源(ぎゅういしょうにんくうげん)に弟子入り、空禅を名乗りながら熱心に修行。文殊院の称号を授かる。

政友が開業した「富士屋」周辺の現在の街並み
政友が開業した「富士屋」周辺の現在の街並み

しかし「涅槃宗」は他宗派の攻撃と幕府の宗教政策によって天台宗に併合させられたが、政友の哲学は他を誹ることを許さなかった。「政友の素晴らしいところは、その後は文殊院員外沙門(いずれの宗派に属さない僧侶)と称して、求道の仏教徒としての姿勢を最後まで貫いた宗教哲学者です。頑固ものなんですね」(末岡氏)
そして僧籍を離れた政友は、十七世紀の寛永年間、京都の仏光寺烏丸に「富士屋」の屋号で書籍と医薬を営む店を開業した。当時の仏教寺院の多くは、これらを営業種目にしていたが、政友も「富士屋嘉休」を名乗り、法典とともに医薬を伝えながら、旧門徒の心の支柱となり、生涯信仰の生活から外れることはなかった。そんな政友を敬愛し、富士屋を陰で支えたのが門弟の一人、蘇我理右衛門という銅職人。この二人の出会いが、後の住友家繁栄の礎、銅との結びつきを生む…。

住友政友と蘇我理右衛門の絆

反魂丹の看板
反魂丹の看板

僧籍を離れ、在野の一宗教家となった住友初代・政友(文殊院)は「富士屋嘉久」の名で商いを始めた。屋号は「富士屋」で、薬と書籍を扱っていた。店舗のあった場所は、現在の市営地下鉄四条駅、阪急烏丸駅から程近い繁華街になっている。
当時の面影を偲ぶことはできないが、唯一残っているのが薬種の一つ万病薬で知られる「反魂丹」(はんごんたん)の木製看板で、政友が出した法典「往生要集」などと一緒に、市内の住友歴史展示館に展示されている。
政友は生涯、信仰生活から外れようとしなかった。仏門に入り、しかも高僧まで務めた上げた政友が宗教への拘りがあっても何ら不思議ではない。しかしそれだけだろうか。
末岡照啓住友史料館副館長は、こう語る。
「文殊院があえて“員外沙門”と言ったのは、いかにも僧侶出身者らしい処世の方便だが、あえてそうしたのは、及意上人空源への追慕の念にほかならないのです。」
信奉していた涅槃宗が幕府によって解宗、統合され消滅の憂き目に遭った。開祖した及意上人の悔しさと無念さを思うと、涅槃宗の正しい教義を戦乱で悩む多くの庶民に宣布し、布教活動を続けるのが己の任とした。それが政友の真の姿ではなかったろうか。
そのような不屈な精神と幾多の法難にも立ち向かいながら[正直・慈愛・清浄]を説く政友を、信徒の一人として心から崇拝し、精神の支柱として陰で支えたのが、蘇我理右衛門という銅職人だった。

この人物こそ、住友の精神の祖となる政友とともに、技術の先師として、今日の住友の礎を築いた人物である。政友と理右衛門の二人は、涅槃宗を通じて絆を深めたが、とくに政友の姉が理右衛門に嫁いだことで一層縁が強まり、年が離れていたにもかかわらず“義兄弟”の間柄となった。そして、政友の長男が病死、住友家の家督が危うくなると、理右衛門は長男・理兵衛友以を養子に出し、政友は跡継ぎとして友以を住友第二代に据えた。
政友の晩年は、嵯峨野の清涼寺の「雙軒庵」に隠棲、和歌を詠んだり、門弟達や二代・友以との書状を交わすなど、自らの境地を告げていたという。第1回で取り上げた、現在でも住友の事業精神の基になっている「文殊院旨意書」も、ここでしたためている。
そして最後まで宗教家としてあり続けた政友が、没する二年ほど前、門弟に宛てた遺文。
「…心もほれ、目もかすミ、朝暮之礼拝も不自由の躯ニ候、生死病痛ハ人間の定りの覚悟に候(中略)」(末岡照啓氏=企業のDNA、文殊院の遺誡より)。「極楽は 日ごとに近くなりにける…」(同)。死期を悟る文章である。 慶安五年(一六五二)、正友は六十八年の生涯を閉じた。

“南蛮吹き”の技術を開発した蘇我理右衛門とは…

“南蛮吹き”の技術を開発した蘇我理右衛門とは…

十六世紀後半、わずか十九歳の青年が、「南蛮吹き」という技術を持ち込み、時の天下人・秀吉や家康に精銅を納めるなど、京都に数々の史蹟を残した。それが、住友初代・政友と共に住友繁栄の礎を築いた、銅職人・蘇我理右衛門である。

京都東山一帯に響く方広寺(天台宗)の梵鐘の音。その響きに耳を傾けるとき、四百年前の京都で「南蛮吹き」の技術をもって活躍した蘇我理右衛門の息吹を感じられる。
重さ八十二トン。大阪冬の陣で豊臣氏が滅亡する原因となった「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が刻まれる大きな梵鐘からは、豊臣・徳川の興亡の歴史がしのばれ、今も重厚で優雅な音を響かせている。 政友の「文殊院由来書」などによると、方広寺は豊臣秀吉が創建し、梵鐘とともに大仏も建立した。しかし十七世紀後半の大地震で大仏は破損。寺院は秀吉の子、秀頼によって再興されたが、大仏は銭の材料として鋳潰されたと伝えられている。
だが、秀吉没後の一六〇二年(慶長七)、徳川家康の命によって金銅の大仏として再建され、同寺院の持仏堂に鎮座し、訪れる参詣者を優しい眼差しで迎えている。
特筆すべきは、時の天下人が国家護持を念じて建立した寺の梵鐘や大仏の造成に理右衛門が自ら精錬した銅を納入していること。これは京都に於ける理右衛門の当時の地位を考える上で、見逃せない史蹟と言えるだろう。

理右衛門は大阪(一説には泉州堺)で生まれる。一五九〇年(天正十八)、わずか十九歳の若さで“上洛”。現在の京都鴨川に架かる五条大橋の近く、寺町松原下ル西側に、銅の精錬と銅細工を事業とする屋号「泉屋」を起こした。
同時期は、秀吉が悲願の天下統一を成し遂げた頃と重なり、京都の町は、今の短冊型の街区に変わるなど都市改造の真っ只中、人口も増えて活気に溢れた。高い技術を身につけていた理右衛門は、「南蛮吹き」の新技術をもとに、秀吉の推し進める新都市造りに、壮大な夢を託していたに違いない。

“南蛮吹き”の技術を開発した蘇我理右衛門とは…

しかし、理右衛門がここに至るまでの道程は平坦ではなかった。末岡照啓 住友史料館副館長の説明でも分かる。
「理右衛門の習得した銀銅吹き分けの新技術は、南蛮人か明国人か、とにかく外国人から習ったようですが、それも直接手ほどきを受けて伝授されたのではなく、銅吹きの原理を聞いた程度だったはずです」
つまり理右衛門は、上洛前の十代の歳で、言葉も分からず、誰の指南も受けず“独学”に近い状態で「南蛮吹き」を編み出したことになる。
当時は、戦国諸大名の勧奨で、金銀銅山の開発は盛んだったが、冶金技術は手探りの時代。特に銅鉱石の中に含有される金銀を抜き出す技術は日本にはなく、銅は金銀を含んだまま使用されていた。
それを理右衛門が「南蛮吹き」を開発したことで銅と銀の吹き分けに成功。一大変革をもたらすことになった。
「これは、わが国の鉱工業史上から見ても画期的な事実ばかりでなく、経済史上においても注目すべき事柄です」(末岡副館長)
理右衛門は六十五歳で生涯を閉じるまで「南蛮吹き」を普及させ、義弟の政友とともに、二代目友以を指導、育成しながら、京から大阪へ住友の事業拡大への道を開いた。

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